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融通無碍に生きるとはまさにこのことかも知れない

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融通無碍とは

www.zinseitanosiku.com

融通無碍とは、「考え方や行動にとらわれるところがなく、自由であること。また、そのさま。」(融通無碍(ユウズウムゲ)とは - コトバンク)を指します。私はこの記事におけるめんおうさんの姿勢に融通無碍と言う言葉がまず頭に浮かびました。実のところこの言葉の意味が記憶に定かで無かったのですが、音と文字面からそういうことだろうと決めてかかっていたらドンピシャでした。まあ、私にしては珍しく勘働きが良かったようです。

思いを御せない状態だけが作れる言の葉がある

めんおうさんの記事の中には次のような下りがあります。


挑戦したら、もしかしたら叶うかもしれない。

こう思ったら、それを目指したくなってしまうのだ。



どうしても理想に近づきたくなってしまう。
この部分の間にはある思いが感じられます。理想に魅了された人の御しがたい情動が迸っているように見えます。

恐らくですが、めんおうさん自身この文章の再現は実は簡単じゃ無いと思います。文章としては極めて単純で少ない文字で構成されていますが、そこに埋め込まれた思いは今このときに凝縮された物なのです。少し時間が経つとそれは制御された記憶に書き換えられます。そこには越えがたい不可逆的な変質が否応なく発生します。

もう少し優しい例を挙げるなら

例えば、夢のこと、思い浮かべる夢や理想では無く実際に寝てみる夢のことを思い浮かべて下さい。夢をあったがままに文字に書き落としそのままを残すのは実は簡単なことではありません。何故ならその時に見た何かは文字面に瞬間的に残せれば僥倖、多くにおいて文に残そうとした端から変質し消失するものだからです。何故ならそれは意識と無意識の境にある物だからです。

その瞬間の情動というのも同様です。無論本人の思い自体は何かしら残ります。そして転変しつつ新しい記憶と思いを紡ぐのです。

共感しつつも共有は出来ない思い

私は「初志貫徹にこだわらず、自分の変化を受け入れて前へ進もう」というタイトルに魅了され以下のようにつぶやきました。

言葉通り読んでこのように感想文を書いているわけですが、その一方で「私が共感しつつも共有は出来ない思いだなあ」とも感じました。否定しようとしているのではなく、そこは違う人間として考えるところがあるという話しです。

私の場合「初志」なるものが多くにおいて存在しないからです。それは志が低いとも言えるし、そうで無いとも言えます。そうというのも私の場合、最初に大目標を立てるのではなく、結果として生み出せることから更に先を多元的に生み出すということが楽しくてしょうがないのです。

繰り返しになるので詳述は避けますが、私にとってこの4月から11月までの期間というのは生き地獄を味あわされた日々でもあり、再生のきっかけでもありました。その結果として偶然得た色々がこれからの展望の源泉となっているという結果ありきの状況があるため、思いは後からしか出てこないという状況のためです。

これはこれでそもそも言葉に落とすのがとても難しい状況ですし、加えて私自身の伝えきる力量の乏しさがあるので読み手に伝えきれる自信はありません。ただ、言えることは私にはめんおうさんの記事は私の心に響いたと言うことです。彼が望む望まぬに関わらずです。

終わりに

ぐだぐだにも程があるという書き物になりましたが、これもまた私にとって今しか書けないだろうことということで、読む方にはご容赦下さるようお願いします。

最後に私なりのエールを送りましょう。

変化は必然です。ただ変化に甘えるのでも無く、流されるでも無く、自分の尻は自分で拭く。それを覚悟するなら意外と人間は自由になることが出来ます。逆に言えば、自分を許さず締め付ける物は常に他者などではなく自身です。ですから、自身を縛り戒めようとする何かに逆らうのは怖いことなのです。そこにあえて踏み出すめんおうさんや多くの勇気ある人の姿勢が私は好きです。

曲げることや変わることは恥ずかしいことや気後れすることでは決して無いし、それが見えているならわざわざ遠回りする必要も無いでしょう。一方で無理をし過ぎることも無いように。「急がず慌てず怠らず」です。

ではまた