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他者を規制するような考えには、理不尽に抑圧されてやむにやまれぬ悩みがあるのかも

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こんばんは。二日続けてTwitterから刺激を受けて書き物をします。

他人を規制するような権利の主張は確かに後ろめたい面がある


他人の規制で不自由を強いることは別に自分の自由を強いることじゃないのに、何故そこを繋げてしまうのだろうという問いがありました。つぶやきの通り、私は結構そういう思考パターンで発言することが多いので、その言葉はグサッと胸に刺さりました。

何故刺さったかと言えば、他人の言動にあれこれ口を差し挟むことに後ろめたさを感じる部分があるからです。大抵こういう他者を縛るような発言をする時の私は「怒り」とか「憤り」とかに支配されていることが多いです。ですから、ガーーーッと勢いよく「怒り」や「憤り」を吐き出している間は溜まってしまった何かを放出するような開放感、言い換えれば一種のカタルシスみたいな中にあります。「言いたいことを言ってやったぞ!!ああ、スッキリ!」という感じの高揚です。



しかし、ガーッと一瞬の高揚で登り切るとその後はエネルギー保存の法則に従うが如く「言い過ぎちゃったかなあ」などと少し冷静さを取り戻してダウン気味になります。「言ってやったぞ!」と思いつつ、その裏で「勢いに任せてやらかしてないかなあ」などと反動が出るのです。それは急速な高揚と反比例で長くしつこく澱のように心のどこかに残っています。今回刺さったのもそういうところがあるからだろうと自己分析しました。

しかし、本当にそういう結論で良いのかしら?

確かに自省の気持ちはあるのだけど、少し時間が経ってから「しかし、本当にそういう結論で良いのかしら?」という疑問が湧いてきました。

この方のつぶやきの前後関係は読み込んでいないので断言はしづらいです。でも、この方(講師なり教師なりの立ち位置らしい)は「何故学生がそういう思考に陥ったか?」という学生の思考のバックグランドには触れていません。何となく学生が他人の権利をないがしろにしていてそれを自由とはき違えているという観点でつぶやいているように読めました。

先に書いたように自分がこういった他人を縛るような思考に繋がるのは大抵は「怒り」「憤り」がまずあります。更に遡ると、それは自分の自由を侵害し、自分の上に降りかかる理不尽(或いは理不尽を引き起こし得る可能性)に対して「怒り」や「憤り」を感じているのです。”「迷惑な人間を罰する権利」「歩きタバコをなくす権利」「選挙に強制的に行く権利」「報道を規制する権利」「外国人移住者にマナーを守らせる権利」”と例を挙げられているけど、そこにある理不尽や抑圧感、身勝手感に対して無抵抗で唯々諾々と飲み込むというのも何か間違えていると思うのです。

例えば、”「迷惑な人間を罰する権利」”はそんなに酷いことなんでしょうか?では「迷惑な人間が迷惑なことを勝手気ままにすることを許容して、自分の自由や権利を侵害されても事を荒立てないために我慢してニコニコしている」のが正しい姿でしょうか?

例えば、"「歩きタバコをなくす権利」"があって何が問題なのでしょうか?「歩きタバコで火の付いたタバコが害のある結果を起こすまで許容する」のが正しい姿でしょうか?その行為をする人達の自由と権利のために、子どもが大怪我をしないように(目や顔の位置で無造作に火を振って歩いているのです)そういう人のために大きく道を避けたりしなければいけないのでしょうか?面倒なので捨てる場所が無かったり携帯ゴミ捨てを持ち歩いていない歩きタバコの人が火の付いたタバコをポイ捨てするのを許容すべきでしょうか?

全てを例示するのは私も疲れてしまうしくどいのでやめます。でも、ここに挙げられているような規制は何かしら問題意識、自分の自由と権利を無造作に侵害する何かを許容しないための手段として、自分の権利を守るための方法として挙げているのでは無いでしょうか?

仮定に仮定を重ねた話の進め方ですが、学生の発想を嘆くよりもっと良いやり方があるのではないかしら?

もし学生の人は自分に降りかかる迷惑や理不尽を何かしらの形で解消したいだけという仮定が真であるならば、より知識があり経験もある教える立場の人がすべきことは嘆くことでは無いと私は思います。学生が考えても出てこないような代替対策案を提示して思考の幅を広げるような刺激を与えてみるのはどうでしょうか?

若い人の思考は非常に柔軟です。それこそ経験や知識で勝る筈の教育者ですら思い至らぬ解決策を発想することだってあるかもしれません。教育にはそういうアプローチがあった方が、教える側も教わる側も前向きになれるんじゃないかしら。楽天的な考え方かも知れませんけれど、その場の反応を見て「こんなものか」と嘆息するより先生は手を差し伸べて導いた方がきっとそこにいる皆に得るものが多いだろうと私は推測します。