とても辛いとき「何かをしなければ」と焦る思いは持たない方が良い
本当は題名はこう続きます。”とても辛いとき「何かをしなければ」と焦る思いは持たない方が良いと私はそう思います。これをつけるかつけないか悩んだのですが、タイトルとしては長くなりすぎるという都合で本文と概要に記載します。
さて、遅ればせながらこんにちは。早速お話ししましょう。
何故こんなことを書き始めたの?
端的にそういう悩みを持っている人をWebで近接するからです。曰く「何も出来ない自分が辛い」「調子が悪くて動きたくても動けない。情けない」といった言葉がSNSでブログでニュースで流れてきます。私はそれに対する答えを私なりに持っています。それを伝えたい。それだけの考えで書いています。
タイトルは都合断言口調になっていますが勿論これはどういう考えを持つかはその人の判断です。ですから、私がどう思おうとそれに従う必要も無いのですけれど、少しでも心を和らげるお手伝いになれば良いなとも思っています。
何故なら私は全く同じような思いを抱き、最終的には希死念慮を抱くに至ったこともあったからです。今思えば「生きていて良かった」と疑うこともありませんが、その際は他の言葉が一切届かないほど自分で自分を責めることに傾倒しきっていました。そんな辛いことは全くする必要は無いのに…。
私は他人の事情は分からないけれど
結論だけ言えば、人間死んでしまったらやっぱり終わりなんです。もうこれはそうとしか言い様がないんです。そうというのも、死というのは基本的に一方通行でなってしまった人が戻ってくることは無いのです。無論、仮死状態や奇跡的な生還を一旦は死んだものと仮定して語ることも出来ます。
もし、それが容認されるのであれば、私は精神的な死、自律神経が暴走し、脳が本来働いてはならない領域まで数回数時間沈降し戻ってくるを繰り返す羽目になりました。意思として死を望む以前に意識を残したまま気がおかしくなるような感情と思考の無限の暴雨風の中に身を浸すことになったのです。
馬鹿な話しですが、これは戻れなければ死よりも辛い羽目になると分かりつつ、瞑想よりも深いところを無制御で漂流したのです。
ですから、他人の死や物理的な死傷とは別個の軸で、また理論や想像などという浅薄な階層ではない領域へ足を踏み込んだ私の三週間は、十分死生観を変えるものになりました。望んだ物では無いけれど、人間はそれでも環境に適応する生き物です。
人間の思考や感情、感覚というのは制御の外に置いても勝手に働き続け人間を決して手放さない。主客が転倒しているようですが、私が経験したことはそうとしか表現できないものでした。
人間は生きているだけで凄い
これには反論もありましょう。例えば植物人間になった場合、例えば脳死をを迎えた場合、そこまでいかなくても脳梗塞など様々な理由で身体制御を失ったり、物理的に身体を欠損したりしてもそう言えるのか?
しかし、私はあえて言いましょう。私は生きていたい。少なくとも、私が出来ることをしたと「思うまでは生きていたい」。そこから先は知ったことじゃありません。
おっと、自分語りに過ぎました。ただ、ここで言いたいことはそれではありません。
今、とても辛くて何も出来ないと悩んでいるあなた、あなたが悩むことなど何も無いのです。何故なら「何かをしなければ」と焦る思いには何の根拠も無いからです。何かをするしない等と言っても所詮はお金で換算出来ることか時間で換算出来ることかじゃないですか?
あなたがあなたのためにあなた自身を生かすこと、十分に生きることより大切なことなどありますか?私はそんなこと考えている暇があるなら、寝るなり、喰うなり、ストレッチするなり、何か目の運動でもするなり、好きなことをしていれば十分価値があると思うのです。
自分を味方にしましょう
あなたはあなたのために生きているし、本来それ以上のことを考える必要なんて無いんです。
でも、自分がそう思えない場合、他人では無く自分自身が敵になり意思が残る限り容赦なく迫って責めてくるでしょう。自分というものを敵にした場合勝てるわけ無いじゃ無いですか。それ自体勝負になってないし、意味が全く無いんです。もっと楽にもっと自由に自分を自分で愛してあげてください。それが無理ならせめて自分を仲間にしていくか、中立まで持っていきましょう。
何、所詮は自分なんですよ。昔「ばかの壁」なんて流行りましたけど、見えないし制御出来ないから壁なんです。無いと思えば壁では無くなります。
繰り返します。もっと楽にもっと自由に自分を自分で愛してあげてください。それが無理ならせめて自分を仲間にしていくか、中立まで持っていきましょう。
今回はここまで。ではまた。