Publish while resting-ぐだぐだわーくす

BLOG that considers the world funny conquest. Worship me (* 'ω' *

母と子が謝らずに幸せで笑っていられる社会はどうすれば実現出来るの?

f:id:dacs:20170715205729p:plain:w760

こんにちは、DACです。

暑い日々が続きますね。今日も暑かったです!

今日2017年7月15日も暑かったです。朝5時あたり外出した時点で空は明るくうろこ雲が流れるように天の一部を埋めていましたが、気温は快適でした。帰りは昼下がりてくてく歩いて移動しましたが、ボワーという感じの熱気に煽られ少し歩いては休むを繰り返しました。

総務省消防庁によると、熱中症による救急搬送者は7月1~9日までに全国で5510人(速報値)。一月で3323人だった6月を大きく上回った。関東7都県では7月3~9日に1日平均196人が救急搬送され、6月の8倍に急増したと伝え、気象庁は「8~9月も全国的に平年より気温が高くなる見通し。真夏の暑さ、残暑ともに厳しい」と予想しています。

くれぐれも体調管理にお気をつけ下さい。小生も気をつけます。

今回のネタ元

本日の日経新聞の夕刊のナビ欄のジェーン・スー氏寄稿コラム「「ごめんなさい」とベビーカー」です。Webでは参照先が見つからなかったので、概要をまず書きます。

概要

  • 駅ビルでエレベーターに乗った際、老夫婦と二組のベビーカーを携えた母子が筆者と同乗した
  • エレベータのドアが閉まる際、降籠でドアが開く際の両方で母親たちはすまなそうに「ごめんなさい」と謝り筆者は違和感を覚えた
  • 筆者には既視感があった。子を持つ友人は子を伴うか否かに関わらず、行き違い、勘違い、もの忘れ。ちょっとしたことでも、申し訳なさそうに頻繁に謝るようになった
  • 直接友人に話を聞くと、頻繁な謝罪に母親たちは自覚があった。子どもを持つと自分以外のことで謝る機会が増える
  • 突っ込んで聞いてみると、母親たちなりのリスク回避が彼女たちを謝罪コミュニケーションに導いている。
  • そもそも子どもの養育だけでも大変なのに、世間から母親に掛かる負荷が大きすぎやしないか」と筆者は文をしめている。

所感

スー氏の暗澹とした気持ちが良く伝わってくるコラムでした。その中で特に悲しいなと感じたのは以下の下りです。


突っ込んで尋ねると、やはり嫌な予感は当たっていた。「喜んでかまってくれる人もいる」と前置きし、彼女は続けた。「泣いていようが笑っていようが、子どもが自分と同じ場所にいるだけで気に入らない人もいるの。子どもを連れているのが父親だったら、同じように不快感を示すかはわからないけれど」暗澹(あんたん)たる気持ちになった。それなら母親は平身低頭で謝るしかない。不屈の態度を採ろうものなら、子どもが被害を受けることもあるだろう。これではまるで、子ども嫌いに子どもを人質にとられているようなものではないか。

事の真偽は分かりません。たまたまそのお母さんが我が子に危害を加えかねない子ども嫌いに遭遇したのかもしれません。或いはそのお母さんの思い込みが過剰で被害者妄想的になっているのかもしれません。

でも、彼女の中ではそれがまごうことなく真実であり、「子どもと自分が社会に接する際にリスク回避せねばならない」と思い込んでいるのです。経験や事実性の有無やより、そう思わせしむる何かが彼女のそれまでの人生経験の中にあったから謝罪コミュニケーションを選択しています。

危機が迫る前に平身低頭謝ることで何とか回避することが出来る全てであって、喜んで構ってくれる奇特な人を除けば殆ど全て他の誰も助けの手を差し伸べてくれたりしないのです。

それはとても孤独で悲しいことだと小生は思いました。どうにか出来ないものかと思いました。

子どもと大人の違い

わざわざ書くまでも無いとは思いますが、子どもと大人は同じ人間ですが色々と違います。

子どもは手がかかる無分別な存在

子どもというものはとかく手がかかる存在であることは、少しでも時間を共にすればどんな人でも分かるでしょう。

赤ちゃんは勿論のこと、幼児、小学生低学年、その段階段階によりますが、彼らには分別などありません。空気も読みません。状況に合わせるということは出来ません。何故なら彼らは未成熟で精神的にも肉体的にも未熟なのですから当然です。

彼らはそういった社会ルールやお約束を覚えるのはまだ先なのです。彼らには分別をつける前にまず生きて大きくなることをこそ求められるのです。急がずとも自然に段階的に社会化しそういったものが身につけていきます。

大人は無分別が許されないし許さない存在

大人は大人の都合で社会ルール・お約束や分別の中で生きることをなかば強制されていますし、その状況に慣らされてもいます。だから、大人の世界は社会的ルールの外にいる存在がいない限りは、その中では衝突する可能性を低くそれなりに快適に過ごせるようになっているのです。いちいちイレギュラーを意識する必要が無い状況が彼らのあるべき世界なのです。

裏を返せば、大人はお約束の外にある無分別を嫌います。眉を顰めます。例を挙げれば、暑いからと言って戸外で服を脱ぎ出せば通報されます(「暑くて…」駅前で女性が下着姿に…わいせつ容疑、43歳を現行犯逮捕 静岡)し、電車の中で大声で歌い出したり演説を始めたりしたら他の人から誰何されるなり叱責されることでしょう。

一皮むいて本能に素直になり誰の目も無いとなれば、外で裸で歩き、そこら辺で排尿・排便を行い、好きなときに歌い大声を出したい人も案外少なくないのかもしれません。けれど、社会的なお約束や法律、個人に植え付けられた規範意識・倫理観がそれを許しません。そこまで行かなくとも、見た目の歳に見合わぬ行為で身をやつせば公然と非難されたり白眼視されることは避けられません。

大人は子どもの無分別を嫌う

大人は全ての無分別を嫌う存在です。そういうように育てられ、その規範を維持することを是として生きているからです。その大人から見ると、子どもは無分別でぶしつけで無分別を行うとんでもない無法者です。ですから、大人は相手が子どもであるかどうかに関わらず、子どもの無分別を嫌います。

「相手が子どもだから大目に見よう」というお約束が共有されていない

小生が思うに「相手が子どもだから大目に見よう」というのも本来大人に課されたお約束の一つなのです。

しかし、このお約束はどうも共有されていない。元々そんなお約束があったか無かったも検証しようがありませんが、無分別を嫌い排除しようとする姿勢を隠さない大人は決して少なくはありません。

「子どもであろうと許さない」「子どもの親は何をしているんだ?」「とにかく迷惑だから消えてくれ」「うるさい、ふざけんな!黙らせろ」「場所を取るな」「子どもを連れて優先席の前でわざとらしく困った顔するな」「こっちは働いているんだ。子どもは立っていて当然だ」「走るな!」「大声出すな!」「早く泣き止ませろよ」

無分別を嫌い、なきものにするための言葉はいくらでも思い当たるし思いつきます。

良い悪いで考えても仕方が無い

この手の話を持ち出すと、母親や子どもの非を問い、改めて責め立てるような人たちが寄って集ってやってくることも予想出来ます。彼らには彼らなりの正義や正当性があるのでしょう。そしてそれには一定の理解可能な理屈もあるでしょう。

それに対して良い悪い、正しい間違っているという二元論を持ち出しても意味が無いと思います。何故ならそれぞれに立ち位置が異なり大事なもの大事でないものの価値付けが異なるのだから、これが唯一の正解であるというものは小生には指し示すことが出来ない。

実際小生とて、朝の殺人的ラッシュの中でベビーカーと子どもを伴ったお母さんがいたら「時差出勤なりどうにかできないのかな」と内心思うし、優先席で寝たふりをしたりゲームに見入ったりしている健康そうな人たちが根が生えたように席を譲らないのもある程度は理解出来るのです。

子どもを育てるのが母親だけというのもおかしい

偽善的に纏めるならば、子どもは社会の全てが育てるべきなのでしょう。子どもはいずれ大きくなって社会を構成する大事な存在なのだし、今大きな顔で分別気取りをしている大人も元を正せば迷惑をかけまくっていた子どもだったのですからね。

ただ、そうはいっても現実は動きません。

自分の子どもや孫ならばいざ知らず、他人の子どもに冷たいのはまごうごとなく多くの人の自然で素直なありようです。まして子どもとは縁の無い人なら尚更です。自分が生きるだけでもつらくて大変なのに「なんでそんな迷惑を背負い込んだり我慢したりしなきゃいけないんだ」という本音を潰し混むことはきっと不可能です。

その一方で、子育ての負荷が母親に偏ってしまう状況も悲しいことだと思います。ワンオペ育児などという言葉が象徴的に流布されるように、母親たちはとても孤独で必死になんとかしようと足掻いているのです。それを無かったことにしたり、他人事として責め立てたりするというのはどう考えてもおかしい。

このまま無理がたたれば、多くの母親は壊れてしまう。既に壊れてしまっているのかもしれません。それを自然淘汰であるとか、甘えているとか、仕方が無いとか言ってしまえる世の中であってはいけません。

なら、何が出来るか…と言う問いにも小生は確たる答えを持ちません。情けないことです。でも、子どもを育てるのが母親だけというおかしい状況を許したくも無い。

母と子が謝らずに幸せで笑っていられる社会はどうすれば実現出来るの?

綺麗な答えが出せず、モヤモヤとした感じを残してしまい申し訳ありません。*1

でも、なんか読んでいて悲しくなったんですよね。自分の母はどうだったのだろう?祖母はどうだったのだろう?時代背景も状況も違うから比較しても詮無いことですが、そんな思いにかられました。

f:id:dacs:20170715211409p:plain:w300
この話は育児への協力が足りない父親とか社会の無理解という、何かしらの問題の原因らしきものを切り出して語り解決策を絵に描くことも出来なくはありません。でも、それが実のところ藁人形の領域であって必ずしも状況を変える決め手にならないだろうことも分かっていますから、そういう結論に落とす気にもなりません。

とにかくモヤモヤします。でも、胸の内に納めるのも嫌でエントリにしてみました。

あなたはどう思いましたか?母と子が謝らずに幸せで笑っていられる社会はどうすれば実現出来るの?あなたなりの考えで答えを作り、もし許されるならお教え下さい。

*1:特に答えを求めてこられた方、本当にすみません