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苦情逃れの保身は見苦しいが、それを作り出した原因は一体何か!?

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こんにちは、DACです。

今回は言い訳についてお話しします。ブログとかTwitterなどのSNSで言い訳ってよく見かけますね。「これは個人の感想です」とか、両論併記で「Aと思うけれどBもわかる」的な書き方とかです。個人的には身に覚えありまくりですが、あなたはどうですか?

元ネタ

概要

  • バラエティー番組などで、明らかに料理や食材をおろそかに扱う場合、「この後、スタッフがおいしくいただきました」という字幕が画面に出ることがある。
  • 過去にザ・ドリフターズのコント番組で食べ物を粗末にしたネタを扱ったとき苦情が集まったこと、その他の過去に累積したクレームから学習した物と考えられる。
  • しかし、子供たちに食べ物を粗末にしてはいけないということを教えるのは周囲の大人であって、テレビではないような気がする。
  • この字幕が施される理由は、番組関係者の苦情逃れの保身目的でしかない。
  • スペインのトマト祭りやプロ野球の祝勝会のビールかけの報道で同様のテロップは表示されない。
  • 温泉リポートの「撮影のためタオルを着用しています」という字幕、 通販番組で商品の感想を話している人の脇に「個人の感想です」とアリバイ的に載せられている字幕も無駄ではないか?
  • 必要な情報と不必要な情報を、一度整理する必要があるのではないだろうか。

所感

一体誰に向けた文章なのだろう?テレビ関係者だろうか?それとも放映方針に口だしするスポンサー企業に対してだろうか?少なくとも視聴者に向けてではなさそうに見えるが、それでも360度全方向にケチをつけようとしている感があってヘンテコなコラムだなと思った。この点は反面教師として非常に勉強になる。何かを書くときはある程度誰に対しての物かを読み手が明確にイメージ出来るようにしないとこうなってしまう。

閑話休題。閑話というにはあまりに致命的な欠陥だけど見て見ないふりをしよう。自分は、本論である松尾氏の指摘にはあまり共感できないのだ。

テレビのお客は誰だ?

確かに、どこをどう見ても食べようがない状態にされた料理や食材に対して「おいしくいただきました」は嘘の匂いがする。濃厚にプンプンする。公然と嘘をつくのはおかしい、けしからん、無意味である、という指摘は成り立つ。

しかし、それは前提としてテレビは誠実で非効率な無駄を排するものであるべきという前提があってこそ成り立つ話である。残念ながらテレビを構成するもろもろは誠実さなど無いし、非効率的でリソースをつぎ込むことで成り立っている世界である。それは他ならぬ松尾氏が承知していることだろう。

テレビ放送のコンテンツ製造者が誰の意見を聞くかと言えば、お金を落としてくれるスポンサー企業だ。視聴者そのものではない。スポンサー企業の顔色を伺い、不興を買ってスポンサーから降りることがないように必死に行動を変化させる。視聴者はスポンサーのお客ではあるけれど、テレビにとってはスポンサーを釣るための撒き餌でしかない。

テレビのとって怖いのは視聴者がスポンサー企業に直接テレビのクレームを入れたり、不買活動をされてしまうことだ。そのような由々しき問題が起きないようにするのは当然のことだ。

SNS全盛の状況ではハマればクレーマー=神様の公式が成り立つ

昨今はSNSの発展により一般個人が意見を発し強調することが劇的に容易化している。気に入らない何かがあれば、即炎上する。炎上の程度次第だが、昔よりスポンサー企業へのクレームの敷居は高くなくなっている。それだけではない。スポンサー企業にクレームを入れることこそ、テレビに言うことをきかせる最短且つ効率的な手段であるということも共有されてしまっている。

炎上はそういう悪い意味での学習を強化している。「保育園落ちた日本死ね」の件も結果良ければ全て良しで社会問題として取り上げられ重要政策化に至ったが、本来は政策策定の道筋から言えば外道そのものだ。とにかく頭数そろえて大騒ぎすれば問題として検証も検討もなく認知され、それを解決すべく動かねばならなくなるというのが現代社会のありようなのだ。

保育園問題は、従来取り上げられにくかった大きな問題に認知を広げ問題解決に動き出したという意味では結果オーライだ。しかし、それが他の山積する問題を押しのけて実現すべき優先度があるかどうかの検証は成されていない。騒がれ共感されたという事実を以て動かざるを得なくされただけのことだ。このような指摘ですら叩きの対象にされかねないくらい正義の御旗が掲げられる状況が発生している。

並べて欲しくないだろうが、以下の流れには事のありなしに関する検証が存在しない。

  1. 炎上
  2. スポンサーへのクレーム
  3. スポンサーからテレビへの物言い

スポンサーが動く段になれば、それがいかに偏っていようが言うことを聞くのがテレビという物だ。そこで「それはごく一部の意見では無いか」などと言う疑念差し挟む余地は無い。現実問題、炎上などはごく一部の熱心な人がやっているにも関わらず、それがハマればクレーマー=神様の公式が成り立つのだ。

必要な情報と不必要な情報を整理しろと正論を口にするのは簡単

松尾氏は。視聴者を低く見ているからこそ、こんな奇習が生まれてしまうのだろうとか「その感想を言う人を選んだり、そう話させたりしていること」がわからないと思われていることこそ、視聴者は怒るべきではないかと書くけれど、それは松尾氏が無責任な立場だから放言できるだろう。

ごく少数のその程度の視聴者が結託して扇動した結果、酷い損害が発生しうるならば回避行動が出てくるのは当然だろう。炎上やクレームの起点となる人達が発生しうるなら機先を制しておきたいのだ。それがいかに馬鹿馬鹿しくてもだ。必要な情報と不必要な情報を整理しろと正論を口にするのは簡単だけど、経営的にそれが損しか産まないと考えているか奇習であろうと繰り返すのだ。

本当に焦点を当てるべきはどこか?

自分のブログではどうしている?

こちらはテレビとは話が違う。経済的云々は自分の場合関係ない。

ただ、炎上は避けたいという思いはある。意味の無い言い切りをして悪目立ちで敵を作ったところで損しか無いからわざわざしない。

「これは個人の感想です」と言う見れば分るようなことは自分は書かない。でも、一定数本気で個人の感想と一般論、引用の判別が出来ない読み手がいることも承知している。読者は読みたいように読むし、その人の程度によって伝わる範囲は異なってしまうのは必然だろう。その上で書き手は自分が出来る範囲で分りやすく書く努力をしたり、読んだなりの解釈を容認したりということになる。

一方で両論併記は自分はよく使う。自分の場合は何かを決めつけている書き物を読んでもその中に正しい内容も間違った要素も含まれていると捉えることが殆どだ。総論は同意できても各論では反対。全ての内容について同意とか全ての意見に対して反対というのはよほど極端な内容で無ければありえない。そこを大雑把に「そうだ!」「違う!」とやるのはあまりに不誠実と自分は思うし、藁人形を作って戦うことに途轍もなく不毛を感じるのだ。

だから、自分はこういう前提でこう感じた。ここは同感するけどね…的な書き方が多い。別に読み手に対する言い訳では無く、判断を厳密に行いたいだけだ。

SNSのあり方に思うこと

今回の松尾氏のコラムに対しては反論をベースに書いたが、総論で自分は同意しているのだ。あんなテロップを出さねばならぬほど程度の低い人は実在する。そのごく少数のために無関係な多くの人が振り回され、馬鹿馬鹿しい物をみせつけられることは不愉快なことだ。

しかし、それをテレビ関係者だけにぶつけても仕方が無いとも思うのだ。SNSがこう強くなってしまった背景には、SNSだけで収まらない状況が出来上がってしまったことにある。東日本大震災以降国内でのSNSの位置づけは一気に高い物になった。メディアはSNSからネタを拾い、SNSの炎上を必要以上に気にするようになった。

時代の趨勢というのは言い訳だ。そろそろSNSの存在にべったり寄り添う幼稚なやり方は卒業していかなければならないだろう。SNSは共有によって起点の情報発信を爆発的に拡大する機能を持ってはいるけれど、それに振り回されて行動を変えるのは違う。どう考え、どうしたいのかは自分たちの意思で決めるべきで外野に頼っては軸が無くなる。また、SNSでの発信に社会を変える物を期待するのは止めていかねばならない。

その意味では焦点をあてるべきは、SNSの利用者の未成熟でありSNSの仕組みの限界であると自分は思うのだ。