出来たであろうことを数える程人生は長くない
こんにちは、DACです。
今回もまた感想文ですね。
元ネタのエントリ
概要
人には色々な制約がある。その中でも最たるものが時間的制約、体力的制約である。筆者は、時を経て知識や経験を蓄積することで実行可能な事柄を増やすことが出来た。しかし、その一方で時間的制約、体力的制約によって選択を強いられる場面が増えてきている。そもそも、私は一体いつまで生きて活動できるのか? 切ってしまった「できる事」は、たぶん、諦めなければならない。
筆者は振り返り述懐する。
最後に「できる事」をどんどん捨てなければ生きていけないのだとしたら、せめて、選ぶべきものをキチンと選んで、選んだからには最善を尽くしていきたい
として、手に残るものを大事に形にしようと結論付けている。
感想
正直言えばがっかりだ
これが40半ばに至らんとする男の言葉だとするなら読むに堪えないものがある。大して差もない年嵩の自分から見ても幼稚だ。何を当たり前のことを言っているのだろう…としか思わない。
勿論、彼個人には色々な事情はあるだろう。周辺事情もあれば本人固有の状況や書くに書けない制約があるのかもしれない。これまでの実績を挙げていけば勿論自分など並ぶべくもない。
しかし、そんなことははっきり言ってどうでも良い。何故ならこれは姿勢の話であって個別の事象の話ではないからだ。そういう表現の仕方をしている以上そう捉えるしかない。
一般的なものの考えとして、選択と捨象は半ば日常的に行わなければいけないことだ。
それがいかに懇切丁寧に大事に積み上げられて形に出来る物であったとしても、それがいかに成功が約束されたものであったとしても、それがいかに新しい未来を生み出し得たものだとしても…捨てるべきものは捨てざるを得ない。
それは「出来ること」でも「出来たこと」でもない
はっきり自覚すべきなのだ。それは「出来なかったこと」だ。
誰も指摘しないだろうしはっきり書いておく。未練を持つことによって過去を汚したり、今向き合っている「出来ること」を壊すな!
奇しくもあたかも、素晴らしいメニューの並ぶ居酒屋に入ったのに、胃袋が小さいせいで、2~3品しか注文できない人のようだ!
という例えに似た連想を小生もしていた。
あたかも小食で素晴らしい多種多様な料理を少量のタパス形式で色々と食べたい女性の嗜好に近いと思った。それなら制約に甘んじたうえでの最善策の一つとして理解できるが、シロクマさんのそれは食べも出来ないのにアラカルト形式で大量に食べたいと欲求だけ肥大している。そんなに食べたければ、大食い王のように胃でも腸でも鍛えれば良い。
所詮は人である以上出来ることには制約がある。個人差は当然あるにしても制約としていかんともしがたいものは存在する。その制約をも超えようと挑んで成功する人もごく稀に存在するが、制約を認めた時点で人は制約に飲み込まれるのだ。
制約を認めた以上、制約に負けた以上、「出来たこと」か言い繕いで慰撫したところで何か一つでも得ることがあるか?
無いよ。そんなものは一切無い。
終わりに
別に打ちひしがれている人に鞭打つ特殊な嗜好が小生にある訳ではない。シロクマ氏に対しての確たる遺恨も情愛も無い。あるのは一定の一方的な信頼感だけだ。だから、率直な感想のみに留める。
しかし、もう少し考えて言葉を出して欲しい。自分の父祖に遡ってその言葉が恥ずかしくないか、或いは子々孫々に恥ずかしくないか胸に手を当てて考えて欲しい。
自分のことだから自分の勝手…であるならば、まだ生きているというのによくよく未練が大きいのだなと憐れむしか出来なくなる。
結論として「「できる事」をどんどん捨てなければ生きていけないのだとしたら、せめて、選ぶべきものをキチンと選んで、選んだからには最善を尽くしていきたい
」のように正しい方向を向いているなら未練などは捨てて今を大切にして欲しい。
「あなたはどのような詩を綴るのか?」
出来たであろうことを数える程人生は長くない。