大人とは役割であり切っ掛けの一つ、実感などいらない
こんにちは、DACです。
今回は、大人って何?というお話しです。
タイトルから九條さんのエントリへの反論と思われるかも知れませんが、違います。それは先に断っておきます。
元ネタ
大きくは2つあります。
- あの頃、なりたかった大人に今の自分はなれていますか? - 人形は四畳半で夢をみる:もっちぃ(id:mottii0609)さん
- 大人になっても、大人になった実感なんて全く湧かないんだ - まったりぐったり:九條ユーゴ (id:kujoyugo)さん
概要
もっちぃ(id:mottii0609)さん
- 小さい頃の作文で「やさしい大人になりたい」と書いた
- その際の意味は、誰かが困っていいたら助けてあげられるような強くて優しい大人
- 優しさの価値、重み付けは人によって異なり、今すぐ昔思っていた優しさは実現困難
- 改めて優しさ、なりたい大人の実現には経験の積み重ねに裏付けられた余裕が必要
- だから経験を積み重ねて、なりたい大人になることを目指したい
九條ユーゴ (id:kujoyugo)さん
- 自分は小さい頃になりたい大人像が無かった
- 大人とは周辺の親や先生のような「子供より知識と経験があって、なんとなく大人っぽい人」と認識
- 大人になった今、大人になった実感が全くない
- 成人して大人として扱われるようになったが中身は子供のまま
- 大人になっても、子供心を忘れたくないというのは常々思っている
- 親という立場になることで、否応なしに大人という実感がついてくるのかも
所感
いずれも素直に自分が今思うことを素直に誠実に書いたのだろうなと思いました。
もっちぃさんは、やさしさというものを色々と模索しています。子どもの頃思ったなりたい大人と今の自分がどう違うのか、今触れている現実はどういうものなのか?そこには明白なギャップがあって、大人になった今は理想は簡単に実現できないことも分かっています。自分に何が足りないか、目指すところに向けて何をしていけば近づけるかを今の自分なりで一生懸命考えています。
九條さんは、大人というものにこれといった期待やあるべき理想を持っていません。ただこういうものだろうと茫漠とした思いはある。歳を経て身体が大人になっても自分が大人になった実感を持てず、身体と心が乖離している感覚はある。そうとはいえ、無理に大人になろうとも思わないし、今の自分のあり方が気に入っている。先のことは分からないけど、子供心を持つ大人という自分が好きな自分であり続けたい。
多少九條さんの書き方は誤解を受けやすいかなとも思います。「実感が無い」「子供心を持つ大人」というのは、大人らしい大人の否定と取られかねない。悪意的に取れば「いい歳してピーターパン症候群かよ」という反応も呼びかねない。小生が要約した内容にはその要素は無いし、九條さんもその対立構造は意図するところではないでしょう。あくまで現在の九條さんの内心を率直に「自分にとって今大事な物はこうだ」と書いていると読み手は受け止めるべきと思います。
大人って何だろう?
「大人って何だろう?」そう改めて問われたとき、自分だったらどう答えるか?
今の自分なら「大人は役割だ」と答えます。ロールプレイングゲームのロール、コスプレのなりきりの意味での「役割」です。
役割って何?
例を挙げるなら、会社でのお仕事でもいいですし、学校での学級委員とか風紀委員とかいきものがかりとかをイメージしても良いでしょう。
何かしらの目的やタスクを与えられると人というものは、それなりにその目的を達成するための行動を取ろうとするものです。そうすると、タスク達成のための行動によって、その人の立ち居振る舞いは変わっていきます。意図せず精神性に影響する場合もあるでしょう。
「形から入るなんておかしい」と思うかも知れませんが、大抵人のものまねや、こういう立場ならこう動くんだろうなというのはイメージしやすいです。そんなの関係ねえ…と独自路線を新規開拓する人もいなくはないですが相応の力量や創意性が必要です。
学級委員長になれば学級委員長らしく振る舞うようになります。学校カーストで言えば、上位のイケてる層に属せば自然類似行動をするようになりますし、逆もまた然りでしょう。人間が社会的な生き物だからという説はとりあえず措くとしても、環境によって人は行動を変えてしまう。
大人は役割
それを役割と呼ぶのは少し違和感があるかもしれないけれど、大人というのは大人として行動せざるを得ない環境に飛び込めば、大人らしい行動をせざるを得ません。
奇しくも九條さんは書きました。「結婚して子供ができたら、また気持ちが変わっていきそうですけどね。親という立場になることで、否応なしに大人という実感がついてくるのかも。
」自分が実感されていないのであくまで想定として書かれていますが、これは正しい。役割とは立場です。そういう立場になれば、その立場に応じた行動を取るようになるのです。
裏を返せば、九條さんはそういう環境や立場になっていないし、当面選択する予定も無い。だから、大人という役割を果たす必要が無いのです。
大人に年齢は関係ない
大人になるのに年齢は関係ありません。ここでいう大人とは、国が定める成人とは全く関係がありません。大人という役割を指しています。
例えば、家庭が貧困で親の収入だけではどうにもたち行かない環境にあるとしましょう。
ようやくメディアが取り上げ始めましたが、日本はいまや貧困大国です。シングルマザーの家庭もあれば、両親健在でも収入が少ない家庭もあります。子どもが中年世代になっても引きこもり、親世代が収入を退職金と年金に頼る家庭、老老介護の家庭、障害者や不意の事故で身体が付随な方のいる家庭、挙げれば枚挙にいとまがないほど、貧困や苦労を背負い込む環境は存在します。
勿論、親は親として頑張っているとしても、国や地方の行政に期待しても苦境は簡単に解決できません。そういう環境で「こうあるべき」「自分は自由でありたい」と口にしても空しいばかりです。
こういった苦難に瀕した場合、子どもであれ子どもという立場に安住できないことは決して珍しくありません。子どもであろうと「自分が生き残るため」や「家族で合いあわせになるため」、どう行動するかを自分なりに考え行動を変えていきます。それは大人になりきれない大人よりも「大人という役割を全うするもの」と言えるでしょう。
海外まで目を向けると
かなり本筋から逸脱した話もしましょう。
いまだに多くの国において子どもは労働力として消費されています。職業選択の自由、就学義務とかどこの天国の話かという状況は別に珍しくありません。ILOの推計によると、世界には十分な教育を受けられず、不当な労働を強いられる1億6800万人もの子どもがいる
と言われます。ノーベル平和賞取ったカイラシュ・サティヤルティ氏は1981年からの取り組みで約8万5000人の子どもを奴隷状態から救い出しましたが、貴重なそれらも氷山の一角にも満たない救いと言えます。
社会がおかしい…という指摘は当然としても、この子どもたちは恐らく精神的には大人にならざるを得ない。それがいかに不自然で改めるべきことであったとしても、大人としての役割は誰かが担うことになるのです。
サティヤルティ氏の問い「世界では1億6800万人の子どもが働き、2億人の大人が働いていない。なぜ、大人に仕事がない中で、子どもが働かなくてはいけないのか。それについて、考えてみたことはありますか」「子どもが一日中働いているのに、その親は失業に苦しんでいる。これは正しいことですか」
にはまっすぐNOと自分は答えます。自分がいかに無力であってもです。
「大人は大人としての役割を子どもに強いてはならないし、そうせざるを得ない世の中が間違っている」と思います。
大人にならないでよい環境は本当に幸福なのか
これは問いとして成り立ってないのかも知れません。
もしも生ける人全てが大人にならないで良い世の中というある種の理想が実現するなら、大人という役割は不要なものなのかもしれませんからね。残念ながら、そういう世界が実現する見通しも道筋もいまのところ立っていません。
幸い日本では大人と見なされる年齢になっても大人という役割を担わなくても成り立つ時期が出来るようになりました。ただ、それはある意味、戦後から続く日本が総体として持つ裕福さやその人が属している環境がそれを許しているというだけのものです。だから、決して理想には届きません。また、同じ日本でもそういう環境とは似ても似つかない過酷な環境も決して珍しくなく並立し増え続けています。
だから、大人になるべき…と繋げようとは思いませんが、「大人にならないでよい環境は本当に幸福なのか」とも思うのです。
自分はどうだったか?
さて、遅ればせながらではありますが、ようやく自分のことを書きましょう。
自分の環境というのは比較的九條さんのそれに近かったと思います。むしろそれどころではなかったかも。親は二人とも働いていて安定した仕事をしていました。具体的に聞いたことはありませんが、職業柄資産も世間一般で言う平均から言えば明らかに上に位置していました。ですので、随分とのんびりとした子ども時代を過ごさせて貰いました。
あまりのだらけぶりに父からは「新聞を読め」「本を読め」「もっと世の中のことを知れ」と言われ続けました。当時ゲームや漫画、アニメが大好きで今も大好きという自分には「うるさいなあ。どうでもいいじゃん」と相手にせず、ますますもって怒られまくるようなことをしていました。勘違いして欲しくないのですが、父は教育熱心でもなければ高圧的な家父長制の権化みたいな人ではありません。むしろゆるめな人でしたが、その当時は「なんて五月蠅い人だ。自由の敵じゃないか」と閉口していたものです。
この捉え方は実に30年近く持ち続けました。実に無邪気で幸せで、結果的に甘やかされていたと今更ながら思います。
変化した切っ掛け
二つの環境の変化がありました。
一つは結婚して子どもが出来たことです。凄くちっちゃくて柔らかくて弱々しい存在を腕の中に抱いたとき「自分が守らないと駄目だ」と自然に思いました。他の誰でも無い自分が何とかしなくちゃ駄目なんだ、ここは逃げちゃ駄目だと思いました。世の中には色々な自由があって、妻子を捨ててまで好きな人を求める人や仕事を求める人もいます。その人たちにはその人たちの正しさがあるんだろうと思いますけれど、自分にはそういう思いがありません。自分にとって大事ななにかは自分が守らなければいけない。そのために必要なことはしようと今も思っていますし、できる限りのことはし続けています。
もう一つは、父が亡くなったときです。平均寿命が長くなる中では早逝といってよい歳でした。でも、病床の父は往事から見る影もありませんでした。日に日に弱り、何が出来るともなく傍らで見守るだけでした。思えば、父と二人で語る機会は数少なかったので、この時間は決して無為ではありませんでした。言葉を紡ぐのも苦しく譫妄も多くなっていた父は最早うわごとなのか、思いをそのままに出しているのか分からない状況でした。でも、自分は父を誤解していたことがはっきり分かりました。親となった自分だから言葉の一つ一つに一人の大人の重みと実感をもって共感することが出来ました。
人は簡単には変わらない
切っ掛けとなったことは、自分にとって衝撃でもありショックでもあり、見えるものが変わるものでした。
そうはいっても人というのは一朝一夕には変わりません。三つ子の魂百まで問い言いますが、自分という人間の枠組みそのものは既に30年近くの間に積み上げられて完成していました。要は、いい加減で勉強嫌いで自分の好きなことしかやりたくない我が儘な子どもでした。
正直言って今もその点では変わっていません。他の方がどう評そうと自分は怠け者だし、ろくなものじゃありません。ゲームも漫画もアニメも好きですし、気が向かないお勉強も大嫌いです。
だけど、変えようとしたことは着実に変わってもいます。曲がりなりにも子どもを育て家庭を楽しいものにしようとしています。父や母がそう腐心していたように子どもに大人を求めず子どもらしく生きられる環境を実現しようと七転び八起きです。父や母は安定した仕事や上向きの経済情勢もあったでしょうけれど、出来の悪い自分は仕事の先行きに不安になりつつ決して裕福では無いなりに大人としての役割を果たしています。
こう書くとすごく抑制的でストイックな感じに見えますけれどそうではないのです。おそろしくゆるいですよ。自分の出来ることを中心にしているから無理というほどの無理はしていません。ただ、面白いと思えることはどんどん増やし、昔からの楽しみに加えて生き方を成長させていると実感しています。意識が高い人から見れば自堕落極まりないだろうけれど、自分が楽しいと思える中で大人という役割を演じています。
多分この大人という役割は人生のその場その場のステージで変化しつつ、自分という核に影響を与えつつ演じ続けるものなのだろうと感じています。
終わりに
大人になりきらなかった頃、自分には正解とか真実とかそういった確たる結論が世の中にあるものだと思っていました。或いは、そういった結論が無いのであれば、作り上げるべきだと思っていました。
しかし、今はそれも幼稚な思いだったのかなと考えるようになりました。確かに唯一無二の正解や真実が必要なこともあります。でも、全てがそうではありません。人は自分の人生を生きるしかないし、生きるべきなのです。だから、自分にとっての正解や真実は別にあるということもある。多くの正解や真実が人の数だけあることもあれば、それが衝突して合弁して結果としてより良い何かを生むこともある。
とても不確実だけど、それだから時間や自由があるのだし面白くなるんだなと思います。
大人という役割は決して特別な何かじゃないし、大人だから凄い何かにならなきゃというものでもありません。大人だから偉いというのも勿論違う。凄い人は大人でも子どもでも凄い。偉い人は大人でも子どもでも偉い。
ただ、大人という役割は切っ掛けとしては大きい。生まれてから死ぬまでの間に自分がしていることを真面目にふりかえる切っ掛け、生き方を増やす切っ掛けは意外に少ない。その意味では避けてしまうのも勿体ないような気もするし、あえて実感を求める必要などないとも思います。
自分が何とか天寿を全うする幸運を掴むとしても、数寸後に不意に死ぬにしても、きっと自分はこの生き方をして良かったときっと言える。その意味ではこの役割を演じて良かったし、これからもそうありたいと思っています。