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お金を払う価値があるもの、お金を貰う価値があるものって何だろう?

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こんにちは、DACです。ご無沙汰しています。

ブログみたいに静的な伝達手段の場合、いつ書いたかなんて初見の人には関係ないお話しなのです。でも、たまにでも読者登録してくれたり、更新したら読んでみようかと思って目を通して下さる人もいらっしゃるでしょう。暫く自分の身辺は酷くがたがたしていまして、時間的にも心情的にも何かを書く状況ではなく、ここ二ヶ月ほぼ更新出来ませんでした。当面詳細を書くつもりは無いですが、仕事絡みで境遇が悪くなったのです。

さて、今回はそれに少なからず繋がる話として「お金を払う価値があるもの、お金を貰う価値があるものって何だろう?」ということについて思い考えたことを書き連ねてみます。

需要があるからお金が支払われる

生きていれば「何かして欲しい」「こんなものを所有したい」といった需要が出てきます。「何かして欲しい」と言う需要に対してはそれを満たそうとするサービスが提供されます。「こんなものが所有したい」という需要にはそれを満たすものを製造し提供されます。それぞれに需要があり、それにお金という対価を支払って受け取るというのが貨幣経済の基本です。

でも、「お金を払うほどでもない」「お金を払うのは勿体ない」となるとサービスやものとは本来交換がなされません。そうやってお金を使わなければ、いくらお金を刷ってお金を生産しようとお金は貯まる一方です。サービスやものは条件によりますが売れ残ってしまい作るために先行投資した様々な原価が負債となります。無から有は作れませんから業態によって差はあるものの煮ても焼いても食えない売れない負債を抱えてしまうと売りたい側としてはどんどん苦しい状況になっていきます。

余ったお金というのは別に個人の労働者に還元されるわけではありません。上手くお金を手元に持つことが出来た人や組織はそれを増やしたい。増やすことは難しくても目減りはさせないために色々な投資先を探す訳ですが、どこを見てもそんな美味しい投資先が無くてお金は受給の流れを作ることも無く漂流している状況です。勿論、それは一般庶民には関係ないお話ですけれどパラダイス文書や実態的な背景の薄い株価の高騰はそういった死に金の墓場が見えています。

過少消費、過少投資で金が消費や設備投資に回らず、だぶついた金が投機的に使用されてあちらこちらに濁った水たまりが出来ているというのは今に始まった話ではありません。でも、この状況の継続をしつつ日経平均が伸びただの浮ついているのは気持ち悪いを通り越して、空しさしか感じません。需要とそれに交換すべき何かはどこへ行ったのでしょうか?

需要があってもお金を支払いたくない

そうはいっても提供されないと困るものはあります。例えば、飲食に関わる物は無いと困りますから日々お金を使います。電気やガスや水道といったインフラの利用料もお金を使います。電話やネットも今や無くてはなりませんし、徒歩や自転車で足りない移動が必要であれば、電車、バス、タクシー、船、飛行機、或いはガソリン代は支出せざるを得ません。全てを挙げきる意味はありませんのでしませんが、他にもそういった欠かすことの出来ない受給というのは色々とあります。

でも、それ以外となると需要があってもよほど切迫しない限りお金が動きにくくなっています。或いは切迫していても売値が下がらない限り買わないか、下がっても買わないというのが世の流れです。

例えば、保育園の話。政府が進める保育園無償化の対象が最近騒がれています。しかし、本来この問題はお金が云々ではなく保育園のサービス提供が需要量を満たしていないことが問題であったはずです。認可外で保育料が高いサービスであっても量的に需要を満たすならば当面の問題は解消します。

なるほど安く済む認可保育園に入れたら高い支出が無くても済んだのにというのは心情的には理解出来ますが、規制があるから認可保育園は安い代わりに採算度外視で継続できるのです。まっとうに経済活動として成り立つようにするには認可外の値段にせざるを得ません。経営者が需要過大だから利益を不要に上乗せしすぎているというなら、不要なサービスを削った料金の低い認可外保育園が台頭しても良さそうなものですけどどうもそうはなっていません。

需要はあるけどお金は払えない、或いは払いたくない。だから、極力認可の安い保育園にしたい。それはわかるけれど無い物ねだりをしても仕方が無いし経済的に健全な流れとしては需要を満たすためにはお金を支払うのが正しいと思うのです。

一方、サービス提供の実務者である保育士は資格が必要であるのに関わらず薄給過重労働ということで従事し続けることが困難な環境を強いられています。おそらく、経営者が保育士への所得配分が良くないということもあるでしょう。でも、そこはあまりつまびらかにされないし、改善もされません。

なんだかな…と思いますが、需要があっても、需要を満たすために一生懸命仕事をしてもお金が上手く回らない構造というのは沢山あります。妥当な値段で妥当なサービスを交換するという仕組みが出来ないからです。その結果どうなるかと言えば、保護者は「困ったときの税金頼りで補助を増やしてくれ」経営者は「お金が無いならお客じゃないよ」保育士は「生活できるお金を払ってくれないなら保育士なんかやってられるか」です。

そのうち、まっとうな保育士はお金がかかるから保育士の資格自体を規制緩和し、外国人労働者を保育士業務に安く使おうという流れになるかもしれません。現行政府も経営者も労働環境の改善より固定費削減のための外国人労働者やAI運用にしか頭が行かないみたいですしね。

お金を払う価値があるもの、お金を貰う価値があるものって何だろう?

読んで頂いたなかで「そうじゃないよ」「勘違いしているよ」「何馬鹿言ってんだ!」と腹が立つ人もいたでしょう。

正直申し上げて自分は保育園問題にしろ経済問題にしろどれだけ理解出来ているかは微妙です。ですから、当事者であれば許しがたい勘違いをつらつら書いているのかもしれません。ただ、そうはいっても需要とお金、それと交換すべきサービスやもののバランスがおかしいことになっているという大枠の話には変わりがありません。

勿論、大金を払っても惜しくないサービスやものというのは存在します。ですが、そういったものってどんどん少なくなっています。色んな物は行き渡っていく中で消耗品となっていくし、わざわざ買うまでも無いかなというものに変わっていきます。本来お金を払わないと成り立たないサービスやものであっても、収入減や生活不安から、自分は払わずに何とか出来ないかという流れになっています。

そういう状況の中で「お金を払う価値があるもの、お金を貰う価値があるものって何だろう?」って今更ながら考えてしまいます。自分は会社員ですから会社が行う製造やサービスを継続するうえでの一部の業務を担うことでお金を貰っています。でも、そのことが本当に「お金を払う価値があるもの、お金を貰う価値があるもの」なのかと思うと首を傾げます。

自分に限ったことではありません。社会を維持、発展し、生きやすく楽しい物にしていくうえで役に立っているもの、お金を払うべきものは何かを語ろうとすれば、大抵の物は話題の遡上に上がった途端に否定されます。「そんなものにお金を払いたくない」「少しなら払ってもいいけどそんなにお金を払いたくない」「ただでも欲しくない」

世の中には無くては困るけれど自分はやりたくないなあという仕事もあります。でも、そういう仕事であっても多くの人は対価は払いたくないのです。こうやって考えると、どこをどうすればまともに経済って回るんだろうって本当に不思議に思います。世界中の人が悩んでこの状況に甘んじているんですから、自分が思いつくわけもないのですけどね。

投げっぱなしでアレですけどたまには休むに似た下手な考えでも書いてみたくなりました。