読み手が書き手の意思に介入することもある
こんにちは!DAC(id:dacs)です。
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今日はこちらへの即興言及です。
読み手が書き手をどう受け止めるかは読み手に依存する
確かにブログという場においてこの想定は正しいと言えるでしょう。或いはオフラインであっても普段から然程関係性が強くない間柄の場合もそうです。リアクションを行う受け手側がどう反応するかを事前に全て想定することは非常に難しいと思います。
多くの場合についてその通り
- 「自分の文章を他人がどう読もうと、それを阻害することはできない」
- 自分の手を一度離れた文章は他人に如何様にでも解釈されてしまう
書き手が読み手に対して干渉するのが困難であるという意味で、多くの場合において正しいと思います。但し、それは以下の二つの条件の上で正しいでしょう。
- ブログの書き手の立場で
- 不特定多数の一見の読み手に対する場合
前提条件と想定結果の関係
何故そういう条件を付けるか?それはぜーたさんがそういう前提条件でこのテーマを書いているからです。
ぜーたさんが想定している読み手は、書き手が書いた内容を読んで自分なりに解釈(再構成)をします。更に、その解釈に基づいて自分はこう感じた、こう考えたり、スルーするなりといった任意のリアクションを勝手に行います。
ぜーたさんの想定では書き手は自らの解釈に疑念を持たないし、一旦何かしらのリアクションを行ったら書き手に対してそれ以上の介入をしないように見えます。
ブログにおいて閲覧者となるのは検索流入であったり、はてなブックマーク経由、その他のリンク経由で流入した一見さんである可能性が高いです。その場合、まず目に入る画像やザックリとしたキーワードを拾って、それらの断片から文脈を自分の中で再構築します。その場に書かれている文脈ではなく、自分の経験や思想に合わせてこのイメージやこのキーワードならこうなるだろうというある程度パターン化された流れで無意識的に即興で作り上げます。
あまり明確に想定されていないと思われる状況
先の条件であれば、確かに多くにおいてぜーたさんの想定は正しいでしょう。但し、次の例外的な読み手の姿勢が想定されていないように見えます。
- 読み手が自らの再構築に疑念を持つ場合
- 読み手が書き手の表現の妥当性を疑う場合
- 読み手が仮説の検証に行動を移す場合
読み手が自らの再構築に疑念を持つ場合
例えば自分の場合、まず「この文章はこう書いてあると解釈できるが、それは本当か?」を疑います。今回の例で言えば、「ぜーたさんが伝えたいことを自分は本当に理解できているか?」という疑念を持ち、仮説に基づく結論を先延ばします。
読み手が書き手の表現の妥当性を疑う場合
更には書き手自身の表現の技量、知識の範囲を疑います。即ち「ぜーたさんは伝えたいことを正しく表現しているのか?」「こう言っているようだが想定は足りているか?抜け漏れは無いのか?」という疑念を持ち、仮説に基づく結論を先延ばします。
読み手が仮説の検証に行動を移す場合
言ってみれば、自分の解釈というのは仮説のようなものです。ぜーたさんの表現を借りると仮説は「多義的」であり確定しない限りは同時に複数成り立ちます。ぜーたさんの前提の場合、読み手はこの「多義的」な仮説を「一義的」な事実として捉えて終わらせようとします。それはそれで一面として確かに正しいのですが、自分の場合「多義的」な仮説が本当かどうかの確認をしないとどうも気持ち悪いと感じる性質です。
この疑念を持った場合次に行うのは、実地での検証です。一番手っ取り早いのが「あなたの言っていることはこういう前提でこういうことだと理解したが、それで正しいか?」と問いかけ、自分の解釈に対する不確定性を減らそうとします。(或いはその他のソースを探して傍証を得ようとします)
確かにこのような行動に出る人は例外的でしょう。ぶっちゃけかなり面倒くさい人です。ですが、一定数の人は書き手の意思に介入し、自分の仮説を強化するなり正誤判断を行うなりのためのリアクションを行い、書き手の出力を増やそうとします。
終わりに
これはこれで自分なりの仮説による解釈の一つに過ぎません。あくまで自分の解釈、自分の興味に基づく検証であって、ぜーたさんが主張したい内容と根本的に違う可能性も多分にあります。
しかし、これがもし全くかすりもしない仮説であったとしても読み手に対しての介入、刺激となる可能性はあります。場合によってはそれによって元々には存在しない別の観点や仮説を生み出すこともあります。
何が言いたかったかと言えば、読み手は案外一様じゃないし、そこで話が断絶するとは限らない…と、これまた当たり前なことを書いてみたのですがいかがでしょうか?