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価値付けを拒否した日本のインターネットのフラット化は味噌も糞も一緒のゴミ屋敷と同じ(前編)

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こんにちは、DACです。

とにかく眠い。何時間寝ても眠い。夏だからなのでしょうか?冬はそうでもないのですが…。

さて、今回は日本のネットのフラット化に思うこと、またもや寝言案件ですが平日ですしね。だらだらやります。

ネタ元

president.jp

概要

  • ばるぼら、さやわか『僕たちのインターネット史』(亜紀書房)からの抜粋

僕たちのインターネット史

僕たちのインターネット史

  • 二人の対談形式で日本のネットに倫理が欠ける理由をあれやこれや語っている
  • 倫理が無いというか、価値判断が希薄、または欠如した状態でエディットを行っている
  • 商売は存在するけど価値判断に手を出すプレイヤーは極めて少なく、Google的なソフトな環境管理型権力か、バカみたいなキュレーション/バイラルメディアしか残っていない

所感

面白かった。とにかく同感なことばかり書いてある。

ただ、天に吐いた唾は必ず自分の顔にかかってしまう。この状況を憂えず、認識せず、「これでいいんだ」と飲み込む人達と一緒にされるのはご勘弁願いたいものですが、さりとて「自分に何が出来るの?」と考え込む話ではあります。とりあえず、記事の中から気になった指摘について個々に所感を書いて残しておきます。

価値判断は積極的に喪失され、価値の格差化が起きている


【ばるぼら】どんな言説でも流すのが言論の自由であり、市場の自由なんだってことですよね。海外だと音楽ニュースサイトの「Pitchfork」なんかは取り上げるアルバムに対して星を必ず付ける、つまり価値判断を思いっきりしている。むしろ肯定否定に拘わらず価値判断を積極的にするというのが海外のネットジャーナリズムの基本姿勢だと思います。日本とはだいぶ落差があります。こういうフラット感は日本特有の現象なんじゃないかなという気がしています。

【さやわか】どうも日本では、「とりあえずすべてのものがあるのがいいんだ、ポストモダンなんだ」という風になったら、何がよいかという価値判断はしなくていいんだという誤解に落ち着きがちなんですよね。価値が相対化したにも拘わらず、何を選択するかが問われているから混迷しているのに。

えっと。ここは小生は少し認識違います。どうも周辺を見ていて思うのは、何がよいかという価値判断はしなくていいんだという誤解では収まっていなくて「何が良いかという価値判断はすべきではない。それこそ自由を損なうし、比較して何になる?」と積極的かつ攻撃的な姿勢が見えます。要はフラット化というよりは引きずり下ろしに転じています。

「価値があるものとは何か?」の問いを最初から持っていない人も多いし、仮にそれを問われても向き合おうとしない人が増えすぎました。水は低きに流れるべきとしたいのだろうと思います。

残念ながら、その希望は満たされることはありません。世の中がいかに相対化、フラット化を進めようとしても価値があるものは燦然と輝き続けます。多くが低きに流れた場合、数少ない価値があるものはまずますもって別物として手の届かない素晴らしいものとして価値を確たるものとするだけのことです。つまり、権威化であり、そこに這い上がるための中間階層が喪失されて行くのです。あたかも日本の個人世帯が富裕層と貧困層に二分されて格差が明確になっていくように、日本のWebも「価値判断をすることを拒否した人達」「価値判断をする手立てを見失った人達」により格差を確実化していくのでしょうね。

特定の誰かの判断による価値付けは敗北した


【さやわか】そもそも読者がそれを望まないんじゃないかな? たとえばコミックナタリーの編集長だった唐木さんはわりと価値判断をしたい派の人なので、コミックナタリーで「コミックナタリー大賞」とかもやっていました。でもあまり活発ではないですよね。しかもあれはナタリーが自分たちで価値判断したものではなくて、あくまで編集者にアンケートを取った結果なので、批評というわけでもありません。結局『このマンガがすごい!』(宝島社)とか「本屋大賞」みたいなものですからね。やっぱり商業性が優位というか、いまは数の勝利の時代ですよね。

この話を出すなら、Yahoo!他が行っていたディレクトリ型検索サービスの敗北を触れないといけないと思います。

結局、雑多化、肥大化したWebのリソースに対して人や特定の組織が価値付けするというのは最早不可能なのです。それは二つの観点でです。

  1. 物理的に処理の範疇を超えている。妥当性を保持するには評価基準を設定する必要があるけど、それを検討する間にリソースが増殖して肝心の収集・整理が追いつかず抜け漏れが大量に発生する。統計を中心とした評価基準を設定することに特化し、収集や評価基準に沿う順位付けや整理を機械化したのがGoogleに代表される検索エンジンで致し方ない流れではあります。
  2. 特定の誰かに依拠するとは、その誰かを信用することに他なりません。フラット化とは「その誰かを信用しない」「誰かの判断を受け入れるなんてとんでもない」という反逆的な動きなのでこれも致し方ない。

編集者の視点、即ちプロの視点というのは商業的ですから当然マスの動きを掴むことにかけては素人など話にならない精度と確実性を持っています。それでも実際のマスの動きは決して一致しません。それを見て「やっぱり商業は駄目だ、信用ならない」となり、何故か「SNSでできた人と人のつながりによって情報が自ずと取捨選択される。これからは誰もが自分で情報をフィルタリングする時代になるんだ」とか「バズってるネタはタイムラインに流れてくる。バイラルメディアがこれからくるよ」という突拍子も無い結論にぶっ飛んでしまいました。

事実、周辺を見てもいつ何時でもPVだバズだと大騒ぎです。要はPVがとれるものやバズがなされるものが勝ちであり、価値があるものだと半ば本気で信じている人達がとてもとても多くなっています

こう書くと「当然じゃん、それが何か?」とふんぞり返る人達には何が問題か理解出来ないでしょう。小生から見れば「おいおい、正気かよ??!」でしかないのですが、まあそういうものです。

終わりに

ペロッと書くつもりが前半で時間切れですね。前編と後編に分けるのは嫌なんですが、とりあえず公開しちゃいますね
www.gudaguda.work
後編を公開しました(*‘ω‘ *)。