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足をついてもいいやんか!たまには「自分の選択って一体何だろう?」を考えてみよう

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こんにちは、DACです。

今回は夏休み最後の日についてお話しします。まあ、ろくに裏取りしないテケトー寝言案件ですのでお気楽に(*‘ω‘ *)。(と思って書き始めたが、書いてからお気楽じゃ無い内容になったが後悔はしていない)

宿題はお済みですか?

大人になってしまうと、8/31と9/1の違いはあまりないです。暑さも同じ。台風がやってくるのも同じ。何となく夏が終わって秋という切れ目は感じるし、一歩年末に近づいたなあとは思う。でも、感覚は夏。9月後半からはハロウィンだなんだと言い出すので確かに9月は秋なんだけど、気温と空模様が秋に準えたものにならないと実感がついてこない。

さて、子どもはそうはいかない。長い夏休みが終わってしまう。振り返れば短かったというのは分かるけど、大人から見れば随分と長い。色々と楽しめたかも知れないし、そうでないかもしれない。そうとはいえ、今日が夏休みの最終日。大人でも思い出すのは、この日まで宿題を留保して慌てて何とか体裁を整えようとする姿だ。

昨今は本人だけで無く、親から祖父母から持てるリソース全てを投入し、果ては外部業者にお金を払って委託する始末もあると聞く。他人事だと思いたいが自分もあんまり他人事では無く、借りる「猫の手」扱いにはされている。

9/1に拘り過ぎないのも大事

メリハリという意味では月替わりというのはとても分かりやすい切れ目ではある。

しかし、世の中にはこの切れ目のはっきりさが重圧になってしまう子どもがいる。はっきり言えば、9/1に学校に行きたくない子どもだ。ここで決して責めてはいけない。その子どもにとって、それはとんでもないハードル、いや死刑宣告に等しい物である場合もあるからだ。

夏休み明けの9/1に子どもの自殺数が年間通じた中で飛び抜けて高いのはご存じだろうか?

内閣府が2015年に発表した「自殺対策白書」によると、2013年までの約40年間に自殺した18歳以下の小中、高校生のうち9月1日が131人、この日をはさんだ9日間で700人以上が自ら命を絶っている。どうかこの数を重く受け止めて欲しい。

親としては9/1という切れ目に他の子どもと同じように学校に行って欲しい、それが普通だとしたいのは分かる。でも、そんな思い込みより子どもの命や心の平安を大事にして欲しい。もしかしたら、単にもっと遊びたかっただけかも知れないけれど、学校に行くことが死を選ばせることもあることは知らねばならない。

もし、仮に子どもが塞ぎ込み陰鬱な表情を浮かべるようなら、無理に学校に行かせるような拘りは捨てて欲しい。9/1ではなく一週間先の9/7や10日先の9/10からの登校にしたってよい。或いは学校以外の選択肢も検討して良いだろう。世間体や習慣づけよりも大事なことがある。

嫌なことをやらずに自己実現するのも戦術

先だって、縁があり「嫌なことや逃げたいことから逆算して好きなことを探す。これも素敵な目標だ | ヌイの脳内」というブログ記事に下読みを行った。

ヌイさんは言う。


思えば私は、嫌なことからゆるりと避けて生きてきた。かなりのわがままだと思う。

でもそれでもいいんじゃないかなって、思っている。だって、大概うまくいったし後悔はないから。

人間、もっと自分の主張はしてもいい。そして、苦しんで自分の苦手をのばす必要もないと思ってる。

嫌なことから逃げれることだって、大きな幸せ。もっとシンプルでいいんだよ。
彼女は、自分が絶対嫌だという物をまず明確化した。それは決して近づきたくないし、実行することもしたくないことだ。それをせねばならない状況は彼女にとって不幸せしかもたらさない。だから、まずその状況に至る道筋と要素の全てを潰しこんでいく。その上で自分が進みたい方向を選択し、自己実現してきたという。

自分は決してこれに共感はしない。むしろ、反発を覚えたことは明記しよう。だけど、その一方で理解も出来たし、有用な戦術の一つだと認めることも出来た。

愚直に困難に突き進むことだけが正解かといえばNOだろう。「やってみてから上手くいったら御の字、駄目だったらその時考えればいいや」というのが自分のスタンスだけれど、それもまた一つの方法論に過ぎない。彼女からすればマッチョで無神経で非効率という評が想定できる。

だから、そこは共感とはまた別に方法論としてありなしを見るのが妥当と思ったし、それぞれにとってのベストなりベターなりが違うのは当たり前かなとも思う。ぶっちゃけ、それは誰がその尻を拭うかで決めれば良いだろうし、知ったことかよとも思う。

実際、補足記事の「本当に嫌なことから逃げるには、何か補ったり妥協をする必要もある。逃げてばかりじゃダメ | ヌイの脳内」では、自ら選択の代償にも言及している。

切れ目に際してどうするか?絶対の正解などはない

瀬戸際というのは別に子どもや若い人だけに与えられる苦難では無い。大きく位置取れば、人間が生きると言うことは「選択と捨象」が常に問われる。だから、その場その場で何かしらの判断や実行が必要になる。

結果を受け取るのはどう選ぼうと自分だ。夏の終わりに宿題を残しているのも選択だし、さっさと始めに済ませてしまうのも選択だ。無理矢理嫌がる子どもを学校に行かせてしまうのも、何かしら猶予を持たせるのも選択だ。嫌なことから排除するのも選択だし、嫌なことを克服しようと足掻くのも選択だ。

はっきり言おう。誰が見ても正しい絶対の正解などはどこにもない。誰も用意してくれはしない。

ただ、その選択が時に悲劇的な結果を生むこともある。だから、その時々に一生懸命考えて選ぶ必要がある。安易に習慣や世間体、思い込みだけでおざなりに動いて後悔しても不可逆的に手遅れなこともある。或いは、最善と信じて選んだ結果での不都合を認めるのが辛いこともある。

だから、その時々を選択し続けるしかないし、その選択は一体何なのかを自分のために問わねばならない。

終わりに

寝言にしてはヘビーな方向に転がったかも知れないけれど、今一度「自分の選択って一体何だろう?」そういったことを立ち止まって考えてみる機会になれば嬉しい。

キャッチーなタイトルを考えたとき「足をついてもいいやんか」のブログタイトルがパッと連想したのでリスペクトしつ言い回しを使いました。id:ichigoyoukanさん、ありがとう(明後日方向からでごめんなさい…というべきか)

止まることに厳しいこの世界に対して 足をついて歩みを止めてもそれは自分で決めていいんだよ - 足をついてもいいやんかも是非併せてお読みください。人それぞれに歩みがあるということを丁寧に書かれています。