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「みんな見てるぞ!」の標語が空しい「本当は誰も見ていない町」から思ったこと

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こんにちは!DAC(id:dacs)です。

今回は、ちょっとした気づき「「みんな見てるぞ!」の標語が空しい「本当は誰も見ていない町」から思ったこと」についてのお話です。
親である自分の無力への自覚、それと子どもが自ら動くためにどうするかについて考えました。

標語や町の話をする前に思ったこと

まず、この気づきに至る前に思ったことについて書きます。

人の腕は案外短くて届く範囲は狭く非力と思った

つい最近のこと、千葉県松戸市で女児が誘拐され、殺害遺棄されるといういたましい事件が起こりました。
www.nikkei.com

子を持つ親の一人としてこのような無惨なことを行う人がいることは許し難いし、犯人の億回の死を以ても償えないものと思っています。そして、思うのは自分の子の安全についてでした。

子どもが巻き込まれる陰惨な事件は過去にもあったことですが、自分が子どもであったとき、それは完全に他人事でした。自分にそんなことが起きる訳はないし、興味も無い。そんなニュースをテレビに映す暇があるなら、アニメや娯楽番組を見たい。

勿論その自分は大丈夫には全く根拠がありませんし、短慮に過ぎる子どもの思考回路です。その一方で事件に巻き込まれる確率は確かに高くは無かったでしょう。

さて、立場が変わり自分が親になると、我が子がまさに昔日の自分を映す鏡となって「そんなこと興味ない」という態度を示されて思い至ります。「自分は無力だな」と…。そして「自分の父母にも同じ思いをさせてきたのだな」と…。

どこがどう非力なのか?

親である自分は仕事があるので通常の平日には家にはいません。妻は専業主婦なので家にいますが、家事もあれば所用もあります。子どもは子どもで学校に行きます。当たり前ですが、子どもが外にいるとき安全であるように常に傍で見守ることは出来ません。

もし仮に常に一緒にいることが出来る環境にあったとしても、現実には物理的に離れるタイミングや隙は必ずあります。絶対の安全などというものはありません。

では、出来ることの中でどうするか?まずは子どもにどういうことが危険であるかを噛んで含めて伝えるようにしました。

しかし、これはこれで難しいのです。子どもはそもそも社会的環境に興味を持っていないからです。「危険だよ、こうしたらいいよ。これは駄目だよ」という心配から生まれた言葉は、お説教かお経か何かのように右の耳から入り左の耳を抜けていきます。

伝えたい気持ちが先走ると怒りすら感じますが、それよりも非力であり無力である、と否応なく感じるのです。

実際に外を歩いてみて思ったこと

子どもの外遊びのお目付け役で一緒に近くの公園に行くことがありました。子どもは友達と一緒に元気に、そして無邪気に一生懸命、全身全霊を以て遊んでいました。

「子どもは遊びが仕事、家に閉じ込めておくなんてとんでもない」と義理の母の言葉もあっての外遊びでした。(ぶっちゃけ「あんた、無責任なこと言うんじゃないよ」と思いましたが…)

そして実際に外に出て見守っていてけれど、やはり親の立場としては、その考えに素直に首肯出来ない状況だなと思うことが幾つかありました。

公園の周囲には人目がありませんでした

住宅街の中にあるちっちゃい児童公園です。住宅街の中にあるし、家から近いのだし安全だろう…という考えは、全く現実が見えていません。

公園の周囲には人目がありませんでした。いたのは一緒に遊んでいる子どもたち3人だけ。他の子の親御さんは公園の前に家があって家事をしつつたまに声をかけたりもしていました。

でも、家の中にいたり買い物に出かけたりと実質子どもたちを見守っている時間は殆どゼロでした。近隣の家も出入りは殆どありません。

つまり、悪意を持って大人が近づけば誰にも気づかれず、害するなり、さらうなりが容易な環境がそこにありました。

危険が迫った時に子どもが大声で助けを求めても

よく「危険がせまったら大きな声で助けを求めなさい」「大きな音が鳴る警報ブザーを鳴らしなさい」と子どもを諭したりもしますが、それも現実が見えていません。

子どもが遊ぶとき、どれだけ大きな声を出すか本当に知っていますか?声の周波数が違って甲高いですし、興奮しているのでとんでもなく大音量で常にあげています。それも嬌声だか悲鳴だか近くにいても判別不能な声です。

そういった声を出しているのに近隣の家から誰か出てきたり、視線があるかと言えば皆無です。自分が家にいる時に外の子供の声を気にしてわざわざ外をよく見たりするでしょうか?

見ません。考えるまでもなく自明のことですが、冒頭の言葉を掛けるとき大人はそれを忘れて、都合の良いあり得ない展開を子どもに諭すのです。

真面目に想像してみてください

仮定で考えるだけでも胸糞悪いですが、仮に自分が子どもに悪意を持った人だとしましょう。

子どもの大声で怯むかと言えば「NO」。

車を用意しているならば、短時間のうちに子供を無力化して掴んで車に押し込む時間は長くて2分、短ければ1分で出来るでしょう。一旦車に乗せてしまえば、どこへなりと移動し自分の安全を確保の上事に及びます。

仮に偶然その現場を見かけた人がいたとします。事件の進行を止められるでしょうか?これも「NO」。

事の顛末を唖然として馬鹿のように見ているだけで、良くて通報。酷ければ写真を撮って、マスコミに「あのときこうだったのです」と何かの成果のように語るのが関の山です。

「みんな見てるぞ」の無意味さを悪意を持った人は正しく理解している

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帰りがけ「みんな見てるぞ」という標語が電柱に括り付けられてるのを目にして、この無意味さを悪意を持った人は正しく理解していると思いました。

ここで今に比べて昔は地域コミュニティが発達していたという懐古的な話は意味がありません。そもそもその懐古が思い出補正や捏造である可能性も多分にありますし、よしんば事実だったとしてもそんなトリビアに何の意味もありません。

大事なのは今をどうするかです。そこに手を付けずに懐古するのは事の重軽を弁えぬ愚行であり、時間の無駄です。得るものがあるなら取り入れ、今を良くしていくことが喫緊の課題であり、問題意識を持っておかねば、町には空しい標語と危険だけが残るのです。

そばにいることは出来ない、伝わらない。それでも伝わるようにしていくしかない

ここで最初の話に戻ります。そばいにることは出来ない。

そして、伝わらない言葉というのは無力です。でも、何とか少しでも難を逃れる手立てを知ること、危険を意識してもらうにはどうすればいいのかを考えました。

残念ながら、これという妙案はありません。何度となく、繰り返し繰り返し伝わるように、意識を向かせる機会を増やしていくことが数少ない自分の出来ることなのだと思いました。それがいかにか細い線だとしても諦めてしまっては伝わることなどありません。

そもそも言葉は意外に非力なものなのです

「そんなことはない!!」「言葉は凄い!」「言葉に救われた!」「言葉で自分の人生が変わった!」色々異論がある人もいることでしょう。

別にそのことを自分は否定しません。むしろ、さもあらんと思っています。

別に自分が行っている「言葉が意外に非力」というのは言葉が結果を生まないという意味では無いのです。もっと限定的で、言葉は言葉単体では非力な道具であり、手段であるにすぎないと言っているだけです。

言葉が力を発するのではなく、受け取った人が思い実行する

言葉は所詮言葉です。言葉が力を発するのは、言葉を受け取った人がどう思い、どう考え、どう動くかによって力を発するのです。

言葉が凄いとおっしゃる方はその全てを含めて言葉の力だと捉えているので切り取る範囲が違うだけで別の何かではありません。ただ、この切り取り方じゃないと、誤認が起きるのです。

同じ言葉でも、受け取り手がどう受け取るかによって無力であったり、大きな結果を生みます。結局のところ、受け取り手に依存するし、稀に大きな力を生むこともあります。

言葉を発する側がどうしても伝えたいのであれば、手を変え品を変え、表現を変えたり、言葉以外のあらゆる手段を使って伝わるまで諦めず伝えようとするしかありません。例えば、言葉の裏に宿る熱量であったり、心の声だったり、身振り手振りであったり、自らの姿勢であったりです。

終わりに

他の方はまた違う思いや違う考えがあることでしょう。それはそれで是非伺いたいし、受け止めたいと思っています。

かっちりとした答えが出せていないモヤモヤした結論となりましたが、非力な自分が思い至った結論です。

読み返すと「青臭くて堪らんわ」と自嘲したくもなるのですが、忘れちゃいけないという気が無性におきてエントリとして残すことにしました。