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岩崎さんが残念に思う大多数の無関心層が「仕方ない」に抗うために出来ることは何か?

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こんにちは、DACです。

今回は、繋がりと断絶のお話です。

ちょうど一年前の7月26日神奈川県相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で元施設職員の男が所内の重度障害者19人を殺害、27人に重軽傷を負わせる事件を起こしました。一昨日24日に追悼式が営まれ、遺族や園関係者の他県内の障害者ら約700人が参列したとのことです。改めてとなりますが、この悲惨、無慈悲な犯罪が残した傷跡の大きさ、亡くなられた方々、被害にあった方々の無念、そのご家族のご心痛は察するに余りあります。

非常に重い話ですが、今日はこの件にまつわるあるテキストについて紹介しつつ、思うところを書いていきます。

今回の参照先

www.buzzfeed.com

概要

小生はこう理解しました。小生の力量不足でかなり意訳というか翻案的にいじっています。是非これを読むだけでは無く、オリジナル記事全文に目をお通し下さい。

  • 犯人の男は7月の時事通信の取材に対し、重度・重複障害者を「人の幸せを奪い、不幸をばらまく存在」と犯行時と変わらぬ自説を繰り返した
  • 筆者は難病「筋ジストロフィー症」を患っており犯人の男が攻撃・侮蔑を繰り返す対象の一人であると自認し、その上で思いを語る
  • 障害を持つ人には幾つかの「しかたない」という言葉がつきまとう。
    • 一つは犯人のように悪意を持つ人、その同意者達が口にする侮蔑と無慈悲な障害者にぶつける「しかたない」
    • もう一つは無関心、無接触であることにより明示的ではないが障害者がつきあたる不便やバリアをやむなしと黙認してしまう「しかたない」
    • 最後の一つが障害者自身が自分の人生と幸せ、生きやすさを自ら求めることを諦めてしまう「しかたない」
  • 顔を上げ「しかたない」に抗い乗り越えるためには障害者の方自身が諦めず自分を認め上を向いて生きること、多くの人に会い地続きであると示すこと。そして、無関心な多くが人として向き合い状況を改めていくように互いを知るように変えていくこと。障害を持って生きる者の仕事であり、犯人や多くの無関心が埋める社会へ送る岩崎さんの解である。

所感

圧倒されました。一つ一つの言葉に載せられた思いがとても重いです。

何故岩崎さんの言葉が重いのか

単純に考えると、岩崎さんがとても重い障害を持ち抗いながら生きているからです。障害の当事者だからです。

しかし、本当にそれだけかと考えを巡らしたとき、それだけではないことに気付き愕然としました。自分がこの話の当事者から外れたいという欲求を強く持っていることが自覚できたからです。つまり、岩崎さんが冒頭あたりに指摘するまたそこまでではないにしろ、日常生活の様々な局面で障害を理由に制限された暮らしを強いられている状況を「しかたない」と容認してしまう考えが、多くの人に無関心という形で現れているという行動に自分がハマっているということです。

こう書くと小生が非難されるのは不可避ですが、小生はこれまでもこれからも障害を持つ方に積極的に触れようと考えていません。小生にとっての大事は、自分の家族と自分の小さな幸せを守ることだけです。自分が精一杯頑張って守っていこうとしている範囲がとてもとても狭くて、それすら完遂出来るかどうかと必死なのでそれ以外の全ての事物とは距離を取っています。ですから、障害の有無如何に関わらず小生には自分が守るべきと規定するものとそれ以外を明確に区別しています。

そこに地続きの他者という観念を持ち込まれると非常に苦しいと思いました。結果的に無関心とせざるを得ないと判断しつつも、本当にそれでいいのかという煩悶を持ち込む提示だからです。それ故に重いのです。

なるほど、同じ社会で生きる者同士だから「知らない」「関心が無い」はその対象者を傷つける行為なのでしょう。ただ、それでもそこに無私の姿勢で距離を縮められるかと言えば、小生の答えはNOです。これは残酷なのかもしれないけれど曲げようのない小生の生き方です。

ではどうすれば良いのか

小生は確たる解は持ち合わせていません。

しかし、治らない病気や重い障害を持っていても、命や暮らしが脅かされず生きられる世の中は、誰にもいつかは必ず訪れる自分が弱った状況に置かれたとき、人を生きやすくするという考えは仰るとおりだと思います。そのためには今ある現状が正しいとは決して思いません。なぜ苦しみが生じて不幸にも思える状況がそこにあり続けているのかを見つめて、改めていく力を醸成していく必要があります。互いに地続きの生活の場で、1人1人多様な不自由を抱えて生きる者の存在に、多くの人が出会っていく必要があります。

ただ、今ひとつどう向き合えばいいのか具体的なイメージを持つことが出来ません。自分が何を与えられるのだろうか、どう接するかを考えた場合、目の前に持っている最優先の懸案に比して、その出会いや状況を改めることへ流し込みうるリソースがどこまでが妥当なのかという落としどころが分からないのです。

推測なのですが、恐らくは岩崎さんがそこまでではないにしろで指摘された多くの「無関心」な健常者は小生と同じような思いにかられるような気がしてなりません。ご指摘を聞いてすぐさま「よし、今から無関心をやめて障害を持つ方と距離を詰めよう!」「持てるリソースをできる限り流し込もう!」と豹変する人が多く出るようならそれは驚嘆に値します。

無関心が良くない、人を傷つけているのだと知れば心ある人は必ず「そうだよね、確かにその通りだ」とは口にします。しかし、必要なのはそういった薄い表面上のリアクションではありません。現実に具体的にどれだけ状況の改善にコミットできるかこそが大事です。

小生はそこは大ぐくりに「かくあるべし」ではなく、細かくそれぞれに出来ること出来ないことをあてこんでいくプロセスを丁寧に踏む必要があるだろうと思うのです。

終わりに

今回、自分でも考えが上手く纏め切れていないことを理解しつつもこの思いを伝えたく文章にしたためました。

勿論、悪意的な判断を行う人達に与するわけでは無く、その層の人達の主張に寄せられた思いはとてもいびつで不正であり唾棄すべきものと考えています。しかし、「無関心」を示してしまう層の一人として、過去の自分、そしてこれからの自分のあるべきを考えたとき、即座に確たる綺麗な解、岩崎さんが望んでいるだろう解を示せないとも思いました。

考える機会を与えて頂いたことに感謝すると共に、自分はどうしていくのが良いのか、何なら地続きのあなたや多くの困っている方々に寄与できるのかを猶予を頂いて考えてみたいと思いました。きっとこのような考えは残念で酷薄なのでしょうが、これは繋がりを絶つものではありません。より現実的持続的に繋がりを持ち、お互いの幸せを実現するにはどうすればよいか、無関心という断絶から一歩踏み出すには度鬱すれば良いのか。折に触れ自分なりの「仕方ない」への抗いを示していくと誓うことを当座の解とさせて頂きます。