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狂った世界を生き残るために!桃の気持ちを思い、人の気持ちをないがしろにする人達に思うこと

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こんにちは、DACです。

今回は、ネットの正義感あふれる「桃の気持ちを思い、人の気持ちをないがしろにする人達」に思うことについてのお話です。

ネタ元


ACジャパン 2017年度全国キャンペーンCM 「苦情殺到!桃太郎」

概要

  • 童話「桃太郎」のおばあさんが桃を拾うシーンが炎上したらのIFをオマージュした
  • 炎上に使用されている語彙、言い回しは実際の使用例に極めて近い
  • 「悪意ある言葉が、人の心を傷つけている」で締め、炎上参画者への再考を促している

所感

小生個人としては「なるほど」とも「よく言った」とも思うわけですが、このテーマは一筋縄ではいかないとも思っているのでその点に触れつつ所感を書きます。

ACジャパン担当者は勘違いしている

恐らくACジャパンの人は勘違いをしています。

良い点をついているのですが、一番何とかしなければいけない部分を外してしまっているので多くの人の心に刺さる一方で届かない層が一定以上いると思います。まさに炎上に加担する人達に対してです。

殆ど全てのWebコンテンツは炎上可能である

思うに炎上不可能なコンテンツなどそうそう存在しません。どんなに無害そうな内容であっても難癖をつけようと思えば可能です。

ACのキャンペーン企画者の方は、この「桃太郎」であるならば流石の炎上参画者も「この炎上はおかしい」と気づくだろうということを期待しているのだろうと思います。残念ながら、その想定は甘いと言わざるを得ません。

炎上に参画する層にとって一度そのノリになれば、まさに例示した通り「桃の気持ちを考えろ」「窃盗だろw」「泥棒ワロタ」「炎上案件キタ━━━━━(゚∀゚)━━━━━!!」「ていうか、川で洗濯するなよ」「旦那は山で柴刈りしている人らしいよ」「背景から住所分かるかも」と言い出すことに何の疑問も持たないのです。

おおよそ殆ど全てのWebコンテンツは炎上可能です。単に燃えやすいか燃えにくいかの違いはあれこそ、機会が高まれば聖書だろうが石仏だろうが何だって燃えますし燃やします。

炎上は自覚のある行為者と自覚のない行為者の二部構成

炎上には二種類の人達が参画しています。一つは自覚のある行為者、もう一つは自覚のない行為者です。

まず、自覚のある行為者とは何か?これは炎上という炎上を見つければ必ず参加する人達です。火の気が無いところでも火を立てる隙間がないかをいつも探しています。ちょうど職業的な空き巣が人気の無い侵入しやすい家を見つけるように、サメがはるか遠くから手負いの獲物を極薄の血の拡散で感知するように彼らは常に炎上を求め、恋い焦がれています。彼らに対し「悪意のある言葉は…」という言葉は決して届きません。それこそが醍醐味であり快楽の源泉なのですから、全く意に介する要素がありません。

第二に、自覚のない行為者とは何か?彼らは普通の人です。普段は特に炎上には加担しませんが、炎上を目にすることもよくあって興味本位で野次馬で眺めています。ですが、自分にとって不快と思う何か、気に入らない何かがあると途端に攻撃を開始します。その行動は彼らにとってとても自然でカジュアルな行動です。そのモードの切替も自覚的ではありません。普段は炎上は面白がりこそすれ好ましからざるものと認識しており今回の話は「なるほどな」と一定の理解を示します。しかし、それが我が事とは思いません。炎上モード時の自分のありようを忘れているからです。

いかなる炎上にも正当性があると信じる人が多い

炎上することの前提には、「炎上対象が悪である」という前提が基本的にあります。炎上とは、その悪を懲らしめ二度と悪いことをさせないための正義の行為であるという考えが相当数あるのです。

無論その正当性が本当にあるかどうかというのは疑問です。しかし、一旦炎上が開始されてしまった事案に対して「本当にこれは炎上するような悪だったのか?」を冷静に考えることは炎上当事者にはまず不可能です。何故ならボウボウと燃える火は人を狂乱と快楽に推し進め、思考をするよりも叩くことに専心させるのです。

「水に落ちた犬は打て(打落水狗)」とは、「水に落ちた犬は打つな(不打落水狗)」という言葉を、魯迅がひっくり返して作った言葉とされていますが、まさにそういう逆転の思いがいかなる炎上も正当化させていくのです。

炎上における正義とは何か?

いい年をしてこの言葉を口にするのはとても恥ずかしいです。

しかし、問わねばならないのです。炎上における正義とは何か?

炎上の元になるのは基本的に「炎上対象は悪」「炎上参画者は正義の代弁者」という構図です。正義の代弁者であるならその正当性を個々に持っており冷静に相手を諭す、或いは対話に持っていき合弁的により良い解決に繋げるというのがあるべきの道ですが、Webでそういう道筋が立つことは滅多にありません。

自分は正義であるからどんな悪罵をもって悪を懲らしめても良いというお約束を成立させている以上、そんな面倒で手間のかかることは誰もしたくないのです。悪は悪。どんなに苦しめても、どんなに卑しめても、どんなに悲しんでも、どんなに辛い目に合わせても良いのだ…そういう不文律的な合意があるから炎上は盛り上がるのだし、多くの人は炎上に取り憑かれるのです。

正義があって炎上があるのではないのです。炎上のために正義は捏造される。もしかすると、悪は大悪事かもしれないし、出来心かもしれないし、何の問題もないのかもしれない。でもそんなことはどうでも良いのです。炎上した時点ですべからく対象は悪とすべきなのであって、そこから先に検証などはありえない。

炎上における正義とはそういうおぞましいものです。

でも、当事者がそれを正義と思う限りACの訴えは本来受け止めるべき人達の心には全く刺さらないでしょう。

勝てば官軍、炎上すれば官軍に与する者こそ正義なのですから。

終わりに

ネットで何かを出力するならば、この「桃の気持ちを思い、人の気持ちをないがしろにする人達」と無縁であることは不可能です。出力を繰り返せばいやでも少しづつ共有範囲が増えていきます。

つまり、彼らの耳目に触れる機会は経時的に増えていき決して減ることはありません。出力をしたい人はその言葉が多くに届くことを望みますから、どこをどうやっても不可避です。そして、既に出来上がっている、いつなんどき炎上が起きてもおかしくない土壌が消えることもありません。

ですから、せめて出来ることは炎上しにくいようにすることだけです。これを書いたらどう受け止めることが出来るかということは常に意識し表現を調整する必要があります。

そんな面倒なことは嫌だ、なんでそんな身を縮めなければいけないのかと反発する人も少なくないでしょう。出力とは自由であることを求めるものです。それはそれで構いません。リスクを負う限り全ては自由です。裏を返せば何が起ころうとその結果は自分で背負うしか無いのです。そこにはこれという絶対の正解など無いのです。

ただ、小生は思います。願わくば、多くの出力者が自分の思いを自由に語り、それぞれがぶつかりあわず認められる未来があって欲しい。望ましからざる何かがあったとしても、会話や調整でより良い何かへ繋がるようになることを。我ながら青臭いと思いますが、そういうことをずっと思ってネットの片隅に居続けています。