Publish while resting-ぐだぐだわーくす

BLOG that considers the world funny conquest. Worship me (* 'ω' *

ブログにおける良い記事と悪い記事について

f:id:dacs:20170414225448j:plain:w760

こんにちは!DAC(id:dacs)です。

今回は「ブログにおける良い記事と悪い記事について」です。
www.torausaencho.com

これ「とらうさ趣味道」のエントリの言及と言いますか、全く同じお題で自分なりの観点で書いてみました。是非オリジナルエントリも目をお通しください!

ブログにおける良い記事と悪い記事について - とらうさ趣味道

ダラダラしてて何が悪いんじゃ、ゴラァヽ(`Д´)ノプンプンというのはさておき、大量生産したからといってエントリ品質は良くなりませんよ。むしろよく読むこと、深く掘ることこそ肝要と自分は思います。

2017/04/14 13:14
b.hatena.ne.jp

最初はこのブックマークコメントで済まそうと思っていたんですけど、言葉足らずだなあ…と

他のものに例えてみる

漠然と良い記事、悪い記事と言ってもいまいちピンとこないですね。何か別の物に例えてみましょう。

例えば、ゲームを比べてみます。良いゲームと悪いゲームって一言で何を指しているかイメージが付くでしょうか?

確かに「凄い!これは神ゲー!!!お金倍払ってもいい!」っていうのありますよね。一方で「これはヒドイ!箸にも棒にもかからんクソゲー!!金の無駄だった!!!」

ゲーム雑誌などで定評があるメーカ、定評のある製作者、定評のあるシリーズは大抵良い評価を得たりします。一方、何の呪いがかかっているんだろうと首を傾げてしまうほどクソゲーばかり連発するメーカもあります。こういった「おおよそ世間一般がどう評価しているか」は売上数や売上高で判断することが出来ます。

では、それが即ち良い悪いの尺度でしょうか?

この問いは「誰にとっての良い悪い」が抜けている

正確に言えば抜けてはいません。「世間一般」にとってです。

世間って何でしょうか?世の中の沢山の人のことですよね。会ったことも話したこともないマスのイメージ。その人達がお金を払ってでも欲しいと思うか、目にもかけずゴミだと捨ててしまうか。確かにそれは一定の評価ではあります。自分が買う立場であれば、お金を払って損をせず楽しめる物を買いたいですから、それは確かに気にします。

主語がプレイヤーとしての自分であれば

でも、それは買うまではの話です。実際買って遊んでみた際どう楽しみ、どう感じるかは結局のところ自分です。

そこで自分にとって面白いと思えば、それは良いゲームだったり神ゲーだったりします。逆につまらなかったら、世間でどう評価されていようと糞ゲーなんです。それをわざわざ面白いと思っている人に「ここがこうつまらなかった。クソゲーだ!お前ら見る目が無いな」と言えば物議をかもしますが、自分の内心にある評価は自分にとっては唯一無二のものです。

まあ、もしかするとそこも自分では判断出来ずに「皆が面白いと言っているんだからこれはきっと面白いんだろう。うん、そうだよ。きっとそう」と自分に言い聞かせてしまう人も中にはいるかもしれません。

とはいえ、ゲームを遊ぶプレイヤーとしては、自分の中にある何か「面白い!」「良かった!」といった琴線に触れるものがあって満足出来れば良いものですし、自分の中の「つまらない!」「こりゃ駄目だ」「時間の無駄だ」と不快要素が含まれれば悪いものになるでしょう。

主語が製作者としての自分であれば

純粋に考えれば、沢山プレイヤーに喜んでもらえれば良いゲームでしょうし、そうでなければ悪いゲームでしょう。もう少し現実的なところを言えば、世間一般と同じように売り上げが高くて収益が出れば良いゲームですし、ちっとも売れず在庫が残って損失ばかりだったら駄目ですよね。

実は、ここにはもう一つ観点があります。製作者の自分にとって作った甲斐であるとか完成度の高低といった見方です。これを自己満足に過ぎないとして捨ててしまって良いものかというとそうでもないような気がします。

世間にも認められないし、お金にもならない自己満足な何か、それでも自分にとっては大事なものを拘って拘って拘って作る。自分が満足しないものは出せないし、世間におもねって自分にとって不本意なものは作りたくない。そういう作り方もあります。

確かにそういう拘りは意味が無い場合もあります。でも本当に世間が見る目が無く後で気付かれることもあります。オンリーワンなそれは、一度認められれば他の誰もが模倣できない追随出来ないものになることだってあります。

そこまで孤高の制作物は難しいとしても、作り手が持っているこだわり、切り口というのは良い悪いの決め手になる大きな要因でしょう。

翻ってブログ記事について

自分はこれブログ記事でも全く同じだと思っています。

世間的に評価が定まっているブログ記事はどうか

定番的に評価されているもの

確かに多くの人に見てもらって、多くの人に好評を得ているならそれはきっと良い記事なのでしょう。良い評価を得られれば、それによって次のエントリ、そのまた次のエントリも見てもらえて一定以上の評価を約束されるでしょう。

読み手の立場からすれば、このブログを読めば100点満点じゃなくても60点以上で安定して楽しめるとなれば安心出来ます。また、書き手としても書いても余程おかしいことを書かない限りは多く読んで貰えて評価されるので安心して提供できます。

見る価値なしと評価されているもの

逆に言えば、あまり目にされることもないし、たまに見てもつまらないことばかり書いていると読み手に思われてしまうのは悪い記事なのでしょう。それによって次のエントリも。そのまた次のエントリも見てもらう機会を失い評価があがりません。

読み手の立場からすれば、このブログを読んでもいつも20点未満だなと思えば寄り付くことも無くなります。また、書き手としては書いても書いても手ごたえが感じられず書くモチベーションをどんどん失っていくでしょう。

世間的に評価が定まっていないブログ記事はどうか

読み手としての判断

実はここが難しいのです。世間的に評価が定まっているものというのは、判断が容易いのです。世間の評価に乗っかればそんなに判断を間違えることはありませんから…。

でも、評価が定まっていないものは読み手が自分で評価を定めなければいけません。運よく自分の好みに合うものに出会うかどうかは運次第、縁があるかどうかによります。もし、縁あって触れる機会があっても一度で分かるものもあれば、何度も読んでいくことで味が分かってくるものもあります。それはとっても面倒なことです。

書き手としての判断

一方書き手に取ってみれば、読み手の評価をはかる手段は案外限られています。PVが増えてくれば一定以上見てもらえているのは分かります。しかし、最初からPVが多いブログはまずありません。また、読者が多くの言葉を費やして感想を自分の言葉で伝えてくれるということは相当希少なことです。あって一言二言、それはもしかしたら手掛かりになるかもしれませんが、水物のようなもので安心して寄り掛かることが出来る訳ではありません。

書き手であり最初の読者である自分としての判断

そこで大事になるのが自分の観点です。

自分なりに書いてみて自分がどれだけ満足して書くことが出来るか?これは簡単です。書き手としての自分、そして最初の読者としての自分は自分なりの回答を持っています。それは恐ろしく残酷であったり楽天的だったりして落ち込むこともあるでしょう。

けれど、そこを抜きに他の読み手に頼っても話は始まりません。何より明確で何より誰よりも率直で、弱みも強みも承知している。書けていないところを熟知し、書き過ぎてしまっているところも分かっている。だからこそ見えてくるところが必ずあるのです。そして、それは筆者であるあなたにしか出来ないことです。

まずは自分なりを出し尽くすのが大事、そして自分なりの落しどころを手に入れていくのが大事。それが良い記事の最低条件だと自分は思います

読み手としての自分を育てることが近道

読み手としての自分を育てる

そうはいっても、自分の経験や知識だけに頼っていると遅かれ早かれ燃料切れになります。所詮自分一人が持っているものなど限られますからね。

他の人が書いているものを読んで読み手としてどう感じるかを突き詰めていくことが大事になるのだろうと思います。きちんと読んで他でもない自分なりの評価を下すということは大変に面倒なことです。

でも、そうこうしていくことによって読み手としての自分を育てることが出来ます。そうして、そこで自分が感じたこと、自分の頭で考えたことというのは、元エントリの主張する中身そのものでもなければ、他の人が下した評価とも違う何かになっていきます

あるべきよりも自分なりを

勿論それが即良い記事作りに繋がるという訳でもありません。ただ、漠然とこういうものが良くてこういうものが悪いと頭の中で思い浮かべるよりも具体化しやすくなることは請け合えます。

より多く自分が良いと思うものを読み、より多く自分が違うと思うものを読み、そして自分なりの考えを少しづつ積み上げていく。それを裏付けられるものは何でも取り入れる。発想が発想を生んで元エントリから似ても似つかないものになっても、自分なりの落しどころに辿り着くまでは突き詰める。

そうやっていくうちに、自分なりの熱量や魂が込められて行ってエントリとして結晶化し、結果としての評価がついてくる。それが一番の近道なんじゃないかしら?

まあ、ある程度理想論を口にしているのは分かっているし、SEOやPVを集めるための技術、或いは記事の外形的要素という観点を取り入れると全く別の結論を出すことも出来ます。

ただ、その人なりの内実が伴わないものの場合、どんなに世間的に評価されていても自分にとっては見る価値があまり感じられません。お行儀が良いだけ、お化粧が上手いだけというのが好きな人もいるでしょうけれど、自分には不要なものです。

あなたはどう思いますか?あなたなりの考えをあなたなりの方法で見つけてみてください。

そして、それをいつか語り合える機会が得られるならとても嬉しいです。自分はそういう時間を持つことが出来ることをいつも心から望んでいます。

終わりに

んー。またダラダラ1時間くらいかけて書きましたよ。読み手にとってどうかというのはさておいて、書いてて楽しいですよね、こういうの。

書いているうちに「お?自分はこんなこと考えてたのか」とか「こういう切り口もあるよなあ」とか次から次に浮かんできます。最後に書いたようにどこで切り取るか次第で違う書き方はいくらでも出来るんですけど、限られた中でどう纏めていくかによってザクザクと取捨選択していく過程ってゾクゾクしますよね。ん?これ自分だけかしらん?

やってもうた

blog-delusion(ブログ妄想)というカスタムURLにしたつもりが何故か「blpg」。pって何?pって(*'ω'*)<ピー