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「自分が望む解を得るための適切な問いかけ」と「バカの壁」

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こんにちは、DACです。

今日はバカの壁についての寝言です。懐かしいですね。養老孟司さんのベストセラーです。ちょっとそれに関連したお話として見かけたエントリに触れてみようと思います。

今回のネタ元

sennich.hatenablog.com

概要

まあ、テケトーに小生の解釈なりで翻案しているからズレはあるかもしれないけど、おおよそこんなことが書いてあります

  • 自分の望む解答を得るには適切な問いかけをする必要がある
  • 自分の望む解答が得られない不適切な質問により振り回されて苦しんだ過去がある
  • 故に適切な問いかけとは何かを探ることが千日氏のブログを書くモチベーションである
  • 1対1による質疑による価値創造、それを共有拡散することによる価値の増大、価値にそぐう収益といった一連の価値の環流はインターネットの可能性の一つであり、実践により実感している
  • 一方インターネットは人を傷つけ自分をも傷つける刃ともなりうる使い方もあるが、それはいかがなものか?
  • 固定的な解、固定的な問いかけに固執するよりも可塑性を持って柔軟な方が生きやすく面白いのでは無いか?

所感

総論的には

結構共感する部分はありますね。特に締めの急にエセ宗教家みたいになりましたが、私がいろんな人のブログを読むときのスタンスは、その人が答えを求めて問いかけている様を傍から見ているような感覚です。スパっと答えを出してしまう人よりも、問いかけ続けている人のブログの方がむしろ面白いと思う性質という部分は小生も同じだからです。

バカの壁

さて、ここでバカの壁です。とはいえ「バカの壁」は読んでいない人、理解出来ていない人にはとんでもない誤解を与えてしまうので簡単に説明します。

バカの壁とは、自分で自分の考えられる範囲を固定してしまい結果的に存在する事物や情報から得られる解釈を狭めてしまうことです。

例えば、すっごく嫌いな人がいます。その人のことは嫌いで嫌いで見たくもありません。そうなるとその人の箸の上げ下げ、普通の振る舞いですら嫌悪の対象となります。

どんな良いことをしたとしても「裏があるんじゃ無いか」「へー偉い偉い」と取り合いませんし、まずいことがあれば「やっぱりか」「そういう奴だよ」となったりします。逆も同じ。

好きで好きでしょうがないならあばたもえくぼ。何でもかんでも良い捉え方をしたりします。でも、その対象者は同じ人であって同じ事しかしていません。単に解釈者が違う、視点が違うだけのことです。

つまり観測する側にオリジナルの事物に対し観測する側が変数Xをかけて受け取るのです。変数Xは意識的な場合も無くはありませんが、多くにおいて無意識的でその人はオリジナルの事物を歪めて自分が得たい結果を得ようとします。

自分にとって見たくない物あってはならないものを捨象し、あってほしいものは拡大拡張解釈して受け入れます。

バカの壁は無意識であるが故に自分だけではその壁があることを認識するのが極めて困難です。また仮に気付いたとしてもそれを取り外すことには苦痛を余儀なくされます。

そのため、多くの人は都合の良いバカの壁にひきこもることになりますし、バカの壁の外には更なるバカの壁があり、真に変数Xを取り除くのは神ならぬ身では不可能なのです。

とはいえ、一切乗り越えず今持っているバカの壁を後生大事に生きるのか、できる限り壁を越えて果敢に進むのかは観測者側の生き様になるわけです。

バカの壁 (新潮新書)

バカの壁 (新潮新書)

途中から小生の超解釈、即ち小生のバカの壁が干渉しています。このまま受け取らず原著を自分の目で読み頭で考えることを奨めます。とはいえ、バカの壁とはそういうものです。

何故バカの壁を持ち出したか?

千日さんが考えるところの「自分の望む解答を得るには適切な問いかけ」というのは千日さんがずっと悩み苦しんで乗り越えた一つのバカの壁だからです。

問いかけそのものを是としていた場合、望む解答は得られない。故に望む解答そのものが間違えているという結論に悩み苦しみ続けた経緯がまずあり、経験の積み重ねや気づきからそもそもの問いの適切性に観点を移すことで一つのバカの壁に気付いたというのが千日さんの主張していることです。

固定的な解や固定的な問いかけを決めてしまって他の可能性を検討しない、考慮の埒外に葬り去ってしまうことは結局は現実逃避であり、事実や事物から遠ざかってしまう。

その点については仰るとおりだと小生も思うのです。残念ながら、ネットの内外に関わらず、この最初のバカの壁に囚われてしまう人はとてもとても多い。そうやっていること自体がその人にとって居心地が良く安心できる物だからです。

裏を返せば、そもそも自分の認識が間違っているかもということを考えることが、不安を呼び込み居心地を悪くしますから「あってはならないこと」自分の認識は変化せず守らねばならない何より大事な宝物としてひ弱にしてしまいがちなのです。

適切な問いかけとは

さて、ここで一つ疑念が出てくるでしょう。

欲しい解を得るために適切な問いかけをするということはどういうことかです。

実を言えばここは千日さんは記述していないのです。そうというのも適切な問いかけというのはまた簡単な物では無いからです。

欲しい解を得るだけの問いかけであれば至極簡単です。つまり、欲しい解に基づいて全てをねじ曲げれば良いのです。前提をねじ曲げ、解釈をねじ曲げ、それを否定する全てを誤りであると規定すればできあがりです。3秒もかからないですね。

それは要するに新しいバカの壁を作って更に狭いところに閉じこもってますますもって狭量になっていくだけのことです。ただ、ここは一つの重要なポイントでもあります。

問いかけそのものが常に適切ではなく、不適切な場合が意外と多くあるという気づきはとても大きいバカの壁ののりこえです。それ自体はとても素晴らしいことです。

しかし、本当に適切な問いかけとは何かという定義は意外と簡単では無いのです。欲しい解を得るという軸があってそこから遡っている訳ですからよすがとなるのは、その欲しい解です。

さて、ここで問題が生じます。欲しい解はそんなに信用して良い物なのかです。ここまで読んでウズウズしていた人もいると思いますが、その疑念は大変正しい。欲しい解というのはその個人から生じた物である以上、当然その個人にとって都合が良いもので観測する対象の事物とは何の関連性も無いものです。つまり、それ自体がバカの壁の源泉とも言えます。

バカの壁の源泉たる自分の欲しい解を軸として遡及しただけの問いかけでは必ずしも適切とは言えない。むしろ不適切になる可能性が高い。

適切な問いを求めるためには、同時に自分の欲しい解に対する適切性も問う必要があるのです。

いわば、この適切な問いと自分の欲しい解は両輪のようなものでありいずれも固定的であってはならない。恐らく千日さんはそこまで辿り着いて書いているのだと読み取ったけれど、この点に関して表現が全く不足していると思います。

これでいいのかな?は常に問う対象を限定してはなりません。それこそがバカの壁を増やす原因です。

人間である以上バカの壁から完全に外へ出ることは不可能です。ですが、「神のみぞ知る答え」を得られる「問い」を探すという観点でより多くのバカの壁を越えようとする果敢な姿勢は人のあるべきの一つの正解であり一つの適切な問いかけであると思います。

終わりに

この手のお話というのは面白いのですが、どうにもホヤッとした話になりがちなのです。ですから今回は楽をして書籍の言葉を借りてみました。

まあ、たまには寝言書いてみないと疲れるんで、こういうのもいいですね。まだまだ眠いけど(*‘ω‘ *)(白目でぐー)。