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広島平和記念式典とチェ・ゲバラに思うこと

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こんにちは、DACです。

今日は、チェ・ゲバラについてのお話です。

何故?

ご存じのように今日は広島原爆の日であり平和式典が執り行われます。その席にゲバラの長男であるカミーロさんが参列するというニュースがあります。それに寄せての所感みたいな物です。

チェ・ゲバラとは

キューバ革命の英雄とされるアルゼンチン生まれの革命家です。

ホセ・カルロス・マリアテギの著書に影響を受けマルクス主義に共感を示すようになり、ボリビア革命でかつて無い自由を得たインディオ達の姿に衝撃を受ける。その後ペルー、エクアドル、パナマ、コスタリカ、ニカラグア、ホンジュラス、エルサルバドルを旅行した末に辿り着いたグアテマラでペルーから亡命していた女性活動家のイルダ・ガデアと出会い、共鳴し彼女と結婚した。この経緯においてゲバラは決定的に社会主義に傾倒していった。

しかし、グアテマラで遭遇したのは軍部の造反、CIA即ちアメリカが導いた社会主義革命の崩壊でもあった。収奪や腐敗、差別を廃し外国勢力からの独立的な国家を目指したものが外国勢力の手引き、傀儡政権の樹立によりあえなく逆流したことにより、ゲバラは反抗勢力への参入、武力闘争による解決を志すようになる。その結果、新政府から暗殺指令を受けグアテマラから逃亡、メキシコに渡る。そこでこの地に亡命中の反体制派キューバ人のリーダーである、フィデル・カストロと出会った。

敗北による流浪、しかし心中は尚不倒にして不敗。カストロに共感したゲバラは即時キューバでの反体制ゲリラへの参画を決意、軍事訓練の後1956年11月カストロと共に反乱軍総勢82名はプレジャーボート「グランマ号」でキューバに向かった。転戦に次ぐ転戦、いや過酷な激戦の中で多くの犠牲を払いつつ1959年1月に首都ハバナを陥落しキューバ革命を成し遂げた。

誤解を避けるため注釈

上記は、チェ・ゲバラ - Wikipediaをベースにした翻案です。小生が主義主張としてゲバラを支持するとしたものではありません。社会主義者であること、武力闘争を是とし急進的な反米左派であったこともあり、ゲバラに対する日本国内評価は大きく分かれます。

日本はアメリカの主導によって復興し自由主義、民主主義影響を受けつつ、社会保障面では共産主義的、社会主義的な公助の観点を諸処に折衷している世界的にも不思議なバランスをもって社会体制を成している国です。(アメリカではそもそも共産主義思想は法的に禁じられていますから存在そのものが許容されません)良い悪いではなく、そういった差異があり、そういった歴史があるという話です。

日本とゲバラ

そのゲバラの家族が何故日本にという疑問があるかと思います。キューバ革命直後1959年7月にゲバラは日本に使節として訪問しています。日本政府としては対米姿勢や周辺国との関係もあり、扱いに困窮したと聞き及んでいます。

また、その際日本においてゲバラの知名度は極めて低く、ナンバーワンであるカストロ議長のオマケ程度の扱いでした。『朝日新聞』が「カストロ・ヒゲ」と揶揄したのは未だに語り草ですし、他の報道機関は報道の価値なしと一切触れませんでした。今日はそういった過去には触れず、各社が手のひらを返してカミーロさんを持ち上げて報道するのはなかなか面白いものがあります。

ゲバラはその際、広島にも訪れ、中国新聞のインタビューで「なぜ日本人はアメリカに対して原爆投下の責任を問わないのか」との問いを発しました。敗戦国でありアメリカの主導をもって復興、上り調子にあった中でこの問いに向き合えって答える者は誰もいませんでした。

カミーロさんの来日について

毎日新聞の報道と所感


6日の平和記念式典に参列するため広島入りした。来日時に父も訪問しており、カミーロさんは「広島は原爆という戦争犯罪の証拠。世界中の人々が訪れるべきだ」と話した。

チェ・ゲバラは訪日団長として59年7月に来日。急きょ予定を変更して広島を訪れ、被爆者とも会話したという。妻に宛てたはがきには「平和のために闘うには、広島を訪れるべきだ」と記した

今年はゲバラの没後50年で、カミーロさんは写真家でもあった父の作品を紹介する展示会が東京であるのを機に初来日。5日に広島市内で記者会見し、「私も父と同じ思いだ。世界各地で紛争が続くが、悲劇を繰り返してはいけない。広島で起きた現実を見てほしい」と訴えた
武力闘争という手段をもって革命を成し遂げた以上、紛争に対して一言で悲劇と断じることが出来るかと言えば非常に難しい。同列とも言えれば決定的に違うとも言える。

しかし、彼らの言葉の中には揺らぐことの無い平和への切望、祈りがあることは間違いが無い。日本において戦後平和はあって当然のものとなった。それまでの敵であった大国アメリカが庇護者となり、経済的にも安全保障的にも他国の脅威の外にあり続けることが許されたからだ。勿論その裏には政治なり経済なり多くの場面で多くの人達が、見えざる血を流し状況を維持し必死に守ってきたからだろう。

ただ、それは世界的に見れば奇跡といってよいくらい希有で貴重なものだ。平和を戦って勝ち取ったわけでは無く、当たり前に教授すべきものとしてきた現代の日本人は平和への祈りや切望を持ち得ない。それはここで語る小生にしても変わらない。

だからこそ、カミーロさんの言葉、そして故ゲバラの言葉は重い。日本政府においても政治家の多くは最早戦争を知らない世代であり、伝え聞かされたものを何となく知っているに過ぎない。恐らく今日も安倍首相は過去の式辞に準えるか、祖父岸伸介の思いを斟酌したアレンジをするかだろうが、決して平和の有り難さに心底からの思いを寄せるものではないだろう。

日経新聞の報道と所感


キューバ革命の英雄、チェ・ゲバラが1959年に広島を訪問した際、妻へ出したはがきがキューバの首都ハバナにあるチェ・ゲバラ研究センターに保管されていることが3日までに分かった。「平和のために断固闘うにはこの地を訪れるべきだと思う」とつづられている。

広島市で「広島・キューバ展」の計画を進めている実行委員会が確認。9月16日から24日まで、はがきの写真をパネルで展示する。

はがきは妻宛てで手書きのスペイン語。広島発の消印があり「いとしい人。今日は広島、原爆に遭った都市から送ります。墓には7万8千人の名前が刻まれています。死者は合計18万人と推定されています」と記され「抱擁を。チェ」と締めくくられている
若干訳が毎日と異なる。断固闘うの方がゲバラの心情を正確に斟酌しているだろうと思う。

7万8千人、18万人という数にしてしまうと一人一人の被災者の顔は見えなくなるが、逆にその残酷さ、悲惨さがいかなる規模で行われたかが胸に刻まれる。当時はそれほどのインパクトが無ければ日本帝国は最後の一人まで闘うという姿勢を崩さなかった。

アメリカはゲリラ的な白兵戦による展開、消耗戦を回避するために最も効率的な手段を選んだとも言われる。或いは、新兵器の実験場として日本を選んだとも言われる。真偽はいまだ分からないが、戦争とはそういうものだという諦観を持つしか無いのかも知れない。

しかし、ゲバラは違った。断固闘うとした。それは勿論ゲバラ自身の闘争を奮い立たせる者であり、我々日本人のものではない。とはいえ、広島という悲劇の現場に立ってゲバラが心に抱いたのが怒りと亡くなった方々への深い哀惜だったことに何も感じないと言うほど小生の心は枯れていない。

終わりに

平和を祈る8月6日8時15分この日、この時間は毎年やってくる。

しかし、今の平和がいつなんどき失われるかは決して分からない。

むしろ今ある状況が長い長い努力と幸運によってもたらされた奇跡なのだろう。近隣国家の動き、そしてアメリカの世界的な立ち位置の凋落、中東から各国に飛び火した憎悪の連鎖、旧来から解決しない紛争の数々、世界は今こそ激動のさなかにある。

とはいえ、世界や平和というとあまりにも大きい話になってしまうのかも知れない。身近なものから遠ざかれば遠ざかるほど興味が持てなくなるのは仕方ない。

だから、せめて何が大事であるかを考えたい。何を自分が守りたいかを考えたい。一人一人は小さい。とても小さいけれどきっと大事な何かがある。安心が過ぎてそれを手放すことにならないために今一度思い出して守って欲しい。

ご参考