諦観を持ちつつも今を生きることにひたむきになること
こんにちは。DACです。
言及というには至らない散文的なひとりごとですが、忘れないうちに覚書しておきます。
記事紹介
ツラツラ書いてきたが、何が言いたいのかというと「認められなくてもいいや」って気持ちが本当は大事だよね、ということと、そういう気持ちを成立させるための前提条件に気をつけなきゃいけないよね、ってことだ。新しい学校や職場に適応し、ちゃんと認められる状態になるに越したことはないけれども、そのことで心がいっぱいになるような状態を避けるためのコツみたいなものが、人生を転がしていくにはあったほうが良いと思う。
「ここで認められないと詰む」は詰む - シロクマの屑籠
エントリタイトルにあるように、「新環境に馴染んでいけないときどういうスタンスを取っていけば、再起不能な形で壊れずに生き残りやすくなるか」についてシロクマさんなりの提示がされています。
「ここで認められないと詰む」と何故思い込むか?
シロクマさんが指摘されているように、ひとえに自己評価を高められるための拠り所が少ないためだと自分も思います。
それは余程恵まれた生き方をしてくるか、痛い目にあったときに生き残りを賭けて這いあがった上で恒常的なバランスを身に着けるかしていないと構築できないものです。
選択肢を一つしか持たないということは、進路を塞がれた時に立ち止まるしか無くなります。しかし、その人が立ち止まろうと時間も周辺状況も容赦なく変化し、立ち止まった人を置き去りにします。ここぞという部分に拘り過ぎることが、結果その人の可能性を圧し潰すのです。
一点意図的に除外しているだろう要素
シロクマさんが意図的に除外しているのではないかと思う要素が一つあります*1。
それは、はなから自己評価が低い人の弱者戦略についてです。彼らは総じて自己評価が低いために、常に鬱屈しており、往々にして自らバランスを欠く行動を取ることによって生き残りを果たしています。
適応ゲームの最適解がまちまちになるということは、人生の最適解もまちまちになるということだ。そのなかで、ときに笑い、ときに苦しみながら、人の人生はなるようなかたちに収まっていくのだろうし、収めていくほかないのだろう。
「ここで認められないと詰む」は詰む - シロクマの屑籠
彼らは最初から適応ゲームのゲーム盤を破壊し新しく代替することにより現在の生き方を習得しています。
似て異なる生存戦略
皮肉にもその解決法は、ある種適応ゲームの最適解に酷似していますが明らかに別物です。何故なら、そこにはリスクヘッジも無ければ、妥協点もありません。
底なしのルサンチマンに身を委ねるか、何かしらの依り代を他者、他物、思想に度を越し求めます。そうすることによって既存の外部的価値観、自らの内部的価値観を破壊または修正しようとします。例えば、ミニマリズムへの過剰な傾倒であるとか、例えば共依存であるとか、例えば後先を考えない自由への渇望であるとか…。
この点については
あくまで提示のみです。あくまでそういう要素の存在を発想しただけで、何か結論付けられるほど踏み込めていません。
自分の思うところ
結局のところ、どういう選択をするかはその人の問題でしかありません。
しかし、自分なりに思う落しどころは「諦観を持ちつつも今を生きることにひたむきになること」です。他人の人生とは違い、自分の人生です。他者に不利益を与える干渉をしない限りは好きにすれば良いのです。
自分などは残された生きられる時間もおおよそ見えてきて、ある程度の諦めは持たざるを得ません。不必要な力みなど乏しいリソースを浪費するだけです。
但し、諦観を持つとは全てを諦めるということでも負け犬に甘んじろという話でもありません。「今手の中にあるもの、手を伸ばせば届くだろう未来を刈り取ることに注力しないと勿体ないでしょう」という話です。
躓いた何かに拘泥するのではなく、意地汚く今を生きましょう。お綺麗に虚飾にまみれて過ごす無駄な時間を与えてくれるほど与えられた生きる時間は長くないのですから…。
終わりに
思いが揮発する前に書き留めるのが自分なりのブログの使い方ですが、今回はあまりに散文的で見苦しいことになり恥ずかしい。とはいえ、こういったことに時間を取れるのは纏まった休みだけですし、Twitterに書くと更に考えが纏まらなくなるので書き留めました。
*1:主題からズレるからと愚考します