Publish while resting-ぐだぐだわーくす

BLOG that considers the world funny conquest. Worship me (* 'ω' *

Twitterに自治など無いし、自分で自分なりのルールを模索したいものです

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TwitterとはチャットライクなSNSです。一応「つぶやき」という体裁で一人がちつぶやくわけですが、そこはネットです。「つぶやき」に過ぎないそれを見る人がいます。偶然見かけて立ち止まるでも良いのです。同じように「つぶやき返す」のもありです。或いはお気に入りの「つぶやきしている誰か」をFollowといって登録してみたり、特定の「つぶやき」に印を付けたり、より多くの人にリレーしてシェアすることも出来ます。

今更何をとおっしゃいますな。もしあなたがTwitterを全く知らない人の前で実物を見せず触らせず説明する身となったと仮定しましょう。恐らく私と同じくらいへどもど四苦八苦しながら説明することになるんじゃないですか?あ、こら!誰がWikipediaとか公式の説明を参照しろと言いましたか?いやまあ、それも良い手ではあるんですけどね。

あなたはネットを使わず実機を見せずTwitterとはなんぞやを説明できますか?

物事には前提という物やお約束という物があります。そこでズルというかチートというか出来るならしちゃえば良いのです。しかし、ツーと言えばカー、阿吽の呼吸で何でも共感できるだろうと伝え手が思うのは大きな勘違いです。本当のところ表現的にはこれでは生やさしいくらいで、物事の共有というのは半端じゃなく難しいのです。

現実を話せばTwitterの利用者は2016年時点で3億弱の人数で漸減傾向と言われています。
news.yahoo.co.jp
3億もいりゃあ凄いよ!と思うあなた、そりゃあ認識が甘い。ジャスティンビーバーのFollowerが1億ということはユーザの3人に1人は彼をFollowしています。所詮その程度の奥行きでしかありません。また、日本のユーザは4500万人と言われていたようですが、よく考えてみて下さい。人口に対しこの比率はおかしいです。アカウントが作られて利用されていないとか1人複数のアカウントを取っていることを考えれば実質1500-2000万が上出来の数字と私は見ています。

別にTwitterがどうのじゃなくて、その狭い囲いの中ですら我々ユーザには全体共有する認識や規則性はほぼほぼ存在しませんということを私は言いたいのです。

イケハヤがどうのとか言うけれど

最近水に落ちた犬に石を投げて殊更楽しんでいる絵面を見せられる場面が多いですね。私はイケハヤなる人物が元々苦手ですし、慎みに欠けた自己中心的な人物として捉えているので、人気のありなしに関わらずお近づきになるつもりがありません。しかし、その私をして「この状態は何だろう?」と思うほどに彼への吊し上げをよく見かけます。

正直3日もすりゃあ飽きるだろうと目算していましたが、執念深く追い込みがかかっているようです。なんともはや、凄いことです。本人が状況をわきまえず燃料を投下するのも間抜けの極致ですが、いちいち律儀に反応する人達もどうかなあと思います。

Twitterに自治など無いし、自分で自分なりのルールを模索したいものです

おっと、ぐだぐだが過ぎました。

要はですね。世の中自分ルールで自分をドライブするものなんですよ。これをどこをどう勘違いした物か「共通の公共ルールがあって自他共に従わねばならぬ」という認識がはびこっているような気がしてなりません。その人が縛りゲームのようにマゾヒスティックに楽しんでいる分には趣味の領域ですが、他人を巻き込み始めると迷惑です。

ルールでは無く提案、唯一なる真実では無く提案や仮説という風に置き換えて欲しいと私は思います。また、自分のことを妄想した共有ルールに委ねるのもあまりに無警戒で無節操なふるまいのように私には見えます。

ことはTwitterに限ったことではありませんが「Twitterに自治など無いし、自分で自分なりのルールを模索したいものです」などと私は考えた次第です。少なくとも私は私のやり方をするし、他の人がどうのというのはあくまで感想を超えることはありません。そのくらいがちょうど良いんじゃ無いかと思うのです。

ではまた

インフルエンサーとブログ界隈について喋りました

こんにちわ!ちょっとブログ記事を書ける状況ではないのでラジオ、つまり音声で記事を仕立てました。良ければお耳をしばし拝借させて下さい(*‘ω‘ *)。


バンバンちゃんと私

さて、私が自分と特定の誰かのことを素直に語ることは実はかなり珍しいことなのだけれど(多分その筈と自分では思っている)、今回は書いてみたい。理由はとある記事を読み込み思うところがあったからです。

その記事とは一年以上前に書かれ、私の目に映ったのは本当につい先ほどのことです。それを読んだ私は矢も楯もたまらずなりました。私にとって頭がおかしくなるほどの期間は本当に辛いことの連続でしたけど、その間ずっと場所を守り続けてくれた方への返礼として言葉を綴りたいのです。

私信そのものを公開するようなもので読む方には面白みが少ないだろうことを申し訳なく思いますが、何卒気持ちを汲み取って下さいますようお願いいたします。まあ、寝言ですよ、そう思って頂ければ本望です。

私が今Webに戻ってきた理由

ここは嘘でも仲間のためというのが恰好良いのですけど、それはちょっと違います。私がWebに戻ってくるのは私が生きている以上宿業のようなものです。私は何か文字を書き連ねていないと私の記憶や感じた事々を失ってしまう恐怖感をごく若いころから持っています。私には長期的な記憶力も短期的な記憶力も非常に乏しいのです。これは恥じるものではありません。

親からも家族からも友人としてきた人達からもただの知人や通りすがりの人からも指摘され、私自身も自覚する単なる事実です。病的というほどでは無く注意力散漫というレベルなのかもしれませんが私は物事をすぐ忘れてしまいます。

ですから、私は自分がその時感じたことや知ったことを思い出せるように色々と書き残す癖がついています。それは未来の私に向けての覚書です。

これは儚い愚かしい行為なのでしょう。人の記憶とはそんなに簡単に記録できるものではありませんし、文字に落した時点、そこから理解し直した時点、更に時間を経過した時点、様々な状況が重なり合い劣化するのは必然です。しかしながら、私が少しでもその時の記憶を取り戻すためには書き残し、他者に問合せ、ようやく記憶らしきものを留める。それで良しとするのが私にとっての記憶のありようだからです。

その観点でWebというのは比較的都合が良い環境であるというのが理由です。私にとって現状代替が思いつかない。ですから、今はWebに戻ってくるしか無いと言う身もふたもないのが私の事情です。

そうとはいえ愛着はあります

私は別にWebじゃなくても私の記憶に整合が保つことが出来るなら他の全ての思いつく限りのものを使います。そうとはいえ愛着はあります。

何故なら私にとってWWWは商用化したほぼ直後から利用している環境ですし、Nifty-Serveから飛び出して以降様々な変遷を経て居続ける場所でした。私の記憶があやふやということもありますが、少なくとも1994年以降からWebで活動をしていました。ですからはてなが云々、Twitterが云々ではなく、恐ろしく原始的なテキストから「適宜覚書」という書き物は始まっていて、その亜種である「ぐだぐだわーくす」は今ここにあります。

「だから何?古参ぶりたいの?」という問いには明確に「No」です。正直私はその利用の当初より興味があったのは私にとっての記憶の可能な範囲での保持でしたし、今でもその原則は大きく変わってはいません。そりゃ人間ですから、自己顕示欲や承認欲求も無いではありませんでしたが、私には恐怖感がまず圧倒的にありましたしそれは永劫変わらないでしょう。

そういった背景の中で私なりに他者とも関わってきました。お察しでしょうが、長い期間の割に私には友人はもとより知人ですらも数少ないのです。そういった中で縁があって一時期でも仲良くさせて頂いた方とは細々と長くお付き合いさせて頂いています。彼ら彼女らと繋がるうえでもWebはかけがえのない通り道として機能してきました。未来は分かりませんが今々すぐにWWWが消失したら私は呆然となると思います。

前置きが恐ろしく長くなりましたが本題「バンバンちゃんと私」

閑話休題というにはあまりに長すぎる前置きですが、私のバックグラウンドを少しでもお伝えしておいた方が良いかと思いました。

「バンバンちゃん」と私のハンドルネーム

さて、表題の「バンバンちゃん」とはジョヴァンナさん(id:giovannna)という私の友人のことです。彼女は私が2017年11月から2018年11月までの約1年Web上で行動不能になった際に私の居場所を守っていてくださいました。
something-new.hatenablog.com

私にとってこの時の詳細の記憶は最早定かでないところがありますから、この書いて頂いたブログ記事を引用しつつ返礼の形を取りたいと思います。ダラダラし続けますが本当にすみません。


私自分のニックネームを適当につけちゃったこと、少し後悔してます。まさかこんなにブロガー同士で関わって日常的に呼ばれると思わず、呼びづらい名前をつけてしまいました。

由来は『銀河鉄道の夜』をモチーフにした小説『賢治先生 (河出文庫)』から。少年とも少女ともつかないジョヴァンナっていう子が登場するんですが、ワガママで奔放で意地悪なところすらある。でも、なんだか魅力的なんですよね。

そういう由来だったのですね。正直最初は何故「ヴァ」なのか拘りを感じつつひとしきり悩んだことを思い出しました。

私のハンドルネーム「DAC」はNifty-Serveでの活動時につけたものですから1992年かれこれ21年名乗っています。元々は「あひる」を文字っていた間抜けな感じだったのですが、途中からこじつけでデジタルとアナログの変換をする機構の意味合いであるということにしました。我ながら失笑を招く名付けですが、今更変える訳にもいきません。その意味で少し後悔しているということは似ていますね。

「バンバンちゃん」と逆に呼びやすくはあるものの短すぎてドメイン名も他の人が取っていたので仕方なく「DAC's Collection Of Texts」として「DACCOT」と名乗る場合もたまにはあるようになりました。

「ヒャッハー委員会」と私


ダックちゃん、ホルスタインおじさんらのブロガーしばき合いバトルも、直接フォローはせず遠くから傍観してましたね。二人とも読者登録はしたけど、ブコメで拡散とかはしなかった。そんなスキルゼロ時代の出来事でした。

【勝利宣言】ブロガーしばきあいへの応援に感謝の気持ちを込めて - 教えて!ホルスタインおじさん!

元々はホルスタインおじさんと赤鬼さんのしばき合いだったんですよ。あまりに楽しそうでついつい横からクチバシをつっこみたくなりましてね。それこそ古参ヅラ丸出しにして乗り込んでいったのです。今思うと顔から火が出そうですが…まあ、数年単位でもこういう私の「やらかし」には枚挙にいとまがありません。

ただ、そうはいってもこのやり取りはとてもとても愉快痛快でした。折角の縁だし、これは周辺のはてな同期を巻き込んで続けて遊びたいと考えて企画したのが「ヒャッハー委員会」でした。

このような奇天烈な名前をしていること自体アイタタタタタでアタタタタヒデブ!!なのですが、それでも構わないのです。とにかく楽しく仲良くしたいという考えでかなり強引に距離を意識的に詰めたのは私も覚えています。

「バンバンちゃん」と私

出会いは酷かったようです。。。あまり認識無いんですが。。。


最初、一気に距離を詰められたからビビって「塩対応」しちゃったんですよね。

ダックちゃんが赤毛の女の子アイコンだった頃の話です。この人絶対に「女の子」ではないだろうなってキャラクターだしさ、なんだろうこの人は……って感じ。(この記事後で見つかったら、どやされるかも……!)

それが常識的な反応ですよ。少なくともWebでオープンマインドであろうとするのはリスクが高いです。まして女性であれば尚更です。だから、私に臆するという考えが今以上にありませんでした。

私が声をかけた人にはある程度共通点があるんですよ。それこそあまり言うと怒られそうな理由です。「恐らく繊細なんだろうな」「でも、何かWebに期待しているものがあってNewbieなんだろうなあ」「掘り起こせば怖いより興味が勝つんだろうなあ」と言ったザックリした目算がありました。外れたら外れたまで。でも、声掛けして六割OKなら大成功と思っていたんだけど、九割はほぼ即答して頂いた認識でした。


そうしたらダックちゃんが「中に入らないか」って誘ってくれて……1回目は断ったんだよ。でも一週間後にもう一度誘われたから、2回目はOKしました。
「塩対応」にしても「一回目は断った」というのも今一つピンと来ておらず、礼節を重んじて気を遣って拒絶を前面に出さないんだなあと思っていたくらいですから、ここは相当認識に差があるのでしょうね。


しかし、そこにダックちゃんが見知らぬブロガー(オトマックスさん)を巻き込んで二人が漫才みたいに掛け合いし始めたら、つい笑っちゃったんで、もう、すっかり術中に嵌まっていました。

友だちだったらいきなりこんなふうに巻き込みリプを送っていいんだ!と知った。

私は敵対的反応を楽しみにしているだろうはてなブックマーカという半ばサイコパスのような連中は大嫌いで虫未満だと思っていました(今は抜け殻も程々に消えつつありますが)が、普通に話が通じるブロガーは基本的に友達になることが出来ると確信していました。

まあ、はてなブログはちょうど私が再加入する二年前にマネタイズ世代が一世風靡していたので、そこの半端に成金みたいになっていた人たちとも仲良くするのは難しかったというのもあります。ただ、その中でも比較的言葉が通じて、常識的な判断が出来る人にはアプローチを強めていきました。

「ヒャッハー委員会」の当初メンバーは偶然に偶然が重なった奇跡的な結果であるともいえるし、必然的な帰結であったともいえると思います。

私はWebはおっかなびっくりくらいで丁度良いと思っていますし、「バンバンちゃん」が思うほど大胆には出来ていないような理解をしていますが、これも認識する人が違えば解釈が分かれることなのかもしれませんね。

やっぱり楽しかったなあ

別に思い出にするつもりは無いんですが、過去として振り返るに楽しかったという実感は確かにあります。


恥ずかしいから言及はしないけど、私は結構記事でもいじられてましたね~。新参者として可愛がってもらった自覚がある。

ダックちゃんが言うことにいちいち反応するから、おもしろかったんだろうなぁ。話しかけられると黙ってはいられない体質だから……。

思い出すと、おかしいです。

ほんの数か月前の出来事なんだけどね。

ここはご明察です。私には子どもが三人いるのですが、真ん中の次女とそっくりな反応を受け取りながら「可愛いなあ」「面白いなあ」と思っていました。そこは今や人妻の人に言う台詞では無いし、私も愛する人とずっと幸せに生きているので「可愛い」の意味合いはそういう感じというのが分かって頂ければ良いのですけど…。

私がこういう適当な人間だと知ったら失望されるかもとおっかなびっくり思うのですが、私は隠そうとしても隠せないような人格らしいです。(自覚はありませんし、そう指摘されると反発したくもなるのですけどね)ですので、下手な小細工や表づらではなく本音を書きました。冒頭書いたように私がこれを意識的に出すのは相当珍しいと自分では思っています。

一年越しではありますが、「ありがとう」

ぐだぐだと毎度以上に長くなりましたが、私があなた「バンバンちゃん」に伝えたい内容は簡潔にして単純です。「居場所を守ってくれてありがとう」「居場所を作ってくれてありがとう」それだけですがそれ以上に有り余る思いを伝えることが出来ない自分の表現力に少々残念な気持ちがしています。

でもね「ありがとう」。あなたがいてくれたから私は助けられたのかもしれません。多分助けてもらったのだと思います。

ありがとう。

そしてこれからもよろしくね。西野カナさんの「トリセツ」の歌詞じゃないけれど「取り扱いが簡単じゃない私だけれど、あなたの友達で良かった。ありがとう」そう一年越しに伝えたいと思いました。

これ後で読んだら消して穴掘って隠遁生活に入りかねなさそうだからここまでにしておきますね。

ではまた。

融通無碍に生きるとはまさにこのことかも知れない

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融通無碍とは

www.zinseitanosiku.com

融通無碍とは、「考え方や行動にとらわれるところがなく、自由であること。また、そのさま。」(融通無碍(ユウズウムゲ)とは - コトバンク)を指します。私はこの記事におけるめんおうさんの姿勢に融通無碍と言う言葉がまず頭に浮かびました。実のところこの言葉の意味が記憶に定かで無かったのですが、音と文字面からそういうことだろうと決めてかかっていたらドンピシャでした。まあ、私にしては珍しく勘働きが良かったようです。

思いを御せない状態だけが作れる言の葉がある

めんおうさんの記事の中には次のような下りがあります。


挑戦したら、もしかしたら叶うかもしれない。

こう思ったら、それを目指したくなってしまうのだ。



どうしても理想に近づきたくなってしまう。
この部分の間にはある思いが感じられます。理想に魅了された人の御しがたい情動が迸っているように見えます。

恐らくですが、めんおうさん自身この文章の再現は実は簡単じゃ無いと思います。文章としては極めて単純で少ない文字で構成されていますが、そこに埋め込まれた思いは今このときに凝縮された物なのです。少し時間が経つとそれは制御された記憶に書き換えられます。そこには越えがたい不可逆的な変質が否応なく発生します。

もう少し優しい例を挙げるなら

例えば、夢のこと、思い浮かべる夢や理想では無く実際に寝てみる夢のことを思い浮かべて下さい。夢をあったがままに文字に書き落としそのままを残すのは実は簡単なことではありません。何故ならその時に見た何かは文字面に瞬間的に残せれば僥倖、多くにおいて文に残そうとした端から変質し消失するものだからです。何故ならそれは意識と無意識の境にある物だからです。

その瞬間の情動というのも同様です。無論本人の思い自体は何かしら残ります。そして転変しつつ新しい記憶と思いを紡ぐのです。

共感しつつも共有は出来ない思い

私は「初志貫徹にこだわらず、自分の変化を受け入れて前へ進もう」というタイトルに魅了され以下のようにつぶやきました。

言葉通り読んでこのように感想文を書いているわけですが、その一方で「私が共感しつつも共有は出来ない思いだなあ」とも感じました。否定しようとしているのではなく、そこは違う人間として考えるところがあるという話しです。

私の場合「初志」なるものが多くにおいて存在しないからです。それは志が低いとも言えるし、そうで無いとも言えます。そうというのも私の場合、最初に大目標を立てるのではなく、結果として生み出せることから更に先を多元的に生み出すということが楽しくてしょうがないのです。

繰り返しになるので詳述は避けますが、私にとってこの4月から11月までの期間というのは生き地獄を味あわされた日々でもあり、再生のきっかけでもありました。その結果として偶然得た色々がこれからの展望の源泉となっているという結果ありきの状況があるため、思いは後からしか出てこないという状況のためです。

これはこれでそもそも言葉に落とすのがとても難しい状況ですし、加えて私自身の伝えきる力量の乏しさがあるので読み手に伝えきれる自信はありません。ただ、言えることは私にはめんおうさんの記事は私の心に響いたと言うことです。彼が望む望まぬに関わらずです。

終わりに

ぐだぐだにも程があるという書き物になりましたが、これもまた私にとって今しか書けないだろうことということで、読む方にはご容赦下さるようお願いします。

最後に私なりのエールを送りましょう。

変化は必然です。ただ変化に甘えるのでも無く、流されるでも無く、自分の尻は自分で拭く。それを覚悟するなら意外と人間は自由になることが出来ます。逆に言えば、自分を許さず締め付ける物は常に他者などではなく自身です。ですから、自身を縛り戒めようとする何かに逆らうのは怖いことなのです。そこにあえて踏み出すめんおうさんや多くの勇気ある人の姿勢が私は好きです。

曲げることや変わることは恥ずかしいことや気後れすることでは決して無いし、それが見えているならわざわざ遠回りする必要も無いでしょう。一方で無理をし過ぎることも無いように。「急がず慌てず怠らず」です。

ではまた

なんでなかなかブログを書き出せないの?

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つぶやきは書けるけど、ブログ書くのは気後れしちゃうのは何故?

ブログあるあるですね。Twitterで頻繁につぶやいているのにブログには書き込むことが出来ない。書きたいな、書こう、書かなきゃって思っている内に一日、数日、数週間、数月が過ぎていき、振り返ってみると前の記事が水分昔だったなあ。もう書くの面倒くさいからいっか…みたいなノリが出てきがちです。

何を隠そう、私自身がそういうものだからです。ええ、書こうと思わなければ何ヶ月どころか年単位で書かなかったりします。何故そんな誰得なことをするの?アクセスもあっという間に落ちちゃうのにね。そう思いますか?でもね。振り返ってみるとやっぱり理由らしい物はあるんですよ。それが他人から見て妥当であったかどうかなんて知ったことじゃあありません。大事なのは何故他でもない自分がそう思っちゃったかなんです。責めるとかでもなくて、自分の認識や行動の源泉はどういったところにあるんでしょうと把握しておくと何か良いことがありそうじゃないですか?

そうというわけで私が思いつく書かない理由、書けない理由を思いつくままに列挙してみましょう。もしかしたら書いている内に「お、これ。よくあるわ」とか「ねえわ、こんなん」とか感じて頂ければ書いた価値があります。では書きますね。

ブログは立派な一個の書き物じゃ無いと駄目とか自分縛りがある

ここまで明確な形になってしまってはいないかもしれません。ただ、ニュアンス的には同じです。

要は立派さとか格好良さ、見栄みたいなものがブログを書くに当たってはあるんですよ。Twitterでつぶやくなら、そんなこと考える前に「これ面白っ!」でつぶやいたりコメント入れたりRTをしたりするわけです。そこに格好良さを求める人はいるのかもしれませんけど、少なくとも私はそうではありません。下手をすると実際に会って話しをするよりも饒舌で軽口で言いたい放題なのがSNSでの発言という奴です。

理由は明確で書いたところで良くも悪くも反応がすぐ分かるんですよね。数字もそうだし、リプライのような反応がパパッと連鎖したりですね。そうなると俄然楽しい訳ですよ。だって本当に寝言みたいなテケトーなこと書いていても「イイネ」とか「自分もそう思う」とか反応あるでしょう。反応を期待していないつぶやきに何かしら反応があるのは、時にうざったい反面、多くは想定を遙かに超えた喜びをもたらすこともあります。

ブログにはそういうご褒美とかカタルシスみたいなのが簡単には得られません。下手な鉄砲も数打ちゃあたる的なSNSに比べると重量級と言いますかそれなりに腰を据えた物を書いては反応を受ける訳です。そりゃあ当たれば楽しいです。でも当たらないと結構がっかりします。それだけに期待を実現すべくそれなりに立派な一個の書き物にしようというのは自然な成り行きと思います。

ブログは長い文章じゃ無いと駄目とか自分縛りがある

ひとつ前のは「立派な一個の書き物じゃ無いと」と似ているんですがちょっと違うんです。形だけでもそらなりに長く書くことをブログ記事なのかSNSの出力なのか区別したりします。本当に内容が詰まっているかどうかは関係無しです。

「意味ねえよなあ」と思ったあなた、まさしく正解です!しかし、ちょっと待ってください。こういう話しなんです。例えば,中身が濃い100文字くらいの内容があったとします。それこそだらだらと10000文字以上書くよりガツンと来るパンチの効いた書き物です。わざと書き物という言葉を選びましたけど、さてあなたはその100文字弱をブログ記事にしますか?それともSNSで流しますか?

私の場合はSNSに流しちゃいます。いかに内容が濃かろうと100文字で1-2行のためにタイトル付けてアイキャッチつけて概要書いてなんてやってられません。ここは人によるところですから他人様のことは分かりません。でも、本当に100文字でやっている人がいたならSNSと同様に手の掛からないマイクロブログ的に運用するか、アクションリスト(To Do List)みたいに列挙するかあたりじゃないでしょうか?

昔の手書きのテキストサイト時代ならSNSなど存在していなかったし、IRCとかfjとかメーリングリストみたいに目的を軸にシェアするような環境ではそういった揮発する言葉を吐き出す場所が少なかったのを覚えています。

要はブログというフォーマットは重いし古いのでしょう

Web日記みたいな前身があってのちにWeblogが開花したように広がりました。手書きテキストサイト中心の頃に比べたら書くことだけに集中していれば誰でも簡単に書くことができるようになったからです。

ただ、その後が拙かった。その先は丸投げになってしまったんですね。確かにHTMLやCGIやJavaScriptみたいな文章自体には関係無い環境構築を意識する必要が無くなったことは偉大でした。しかし、その後に出てきたのはアクセス至上主義や広告収入至上主義です。それはそれでモチベーションを追加できるし実利もあるという良い面もあるのですけど、格差を明確にするプロセスでもありました。

数字で表現できると言うことは比較が出来るということです。無論その比較には前提があってブログの全てを比較しているわけじゃ無い限定的な物なんですけど、ひとたびそういう尺度を持つと誤解がドンドン進みました。本当のところはその尺度は後付けで作られたということも自覚していましたが、人間カウンターであるとかPVとかお金とか数字で表現される物が大好きだし弱いというのはある程度共通なんだと思います。

ただ、その尺度も段々重いし古い物になりつつあるんじゃないかと私は思います。それだけで文章を書き続けられるならなかなか素晴らしいのですが、人間欲が深い一方楽をする方を優先したいので「SNSで十分満足だ」という人が増えるのも自然の成り行きです。いや、それですらSNS疲れで消えていったりするわけですからね。

そもそも出力って楽な物じゃない。楽しいけど楽しさを阻害しないのは難しい

これまた何言っているのか分かりにくいですよね。すみません。

ここまで書いてきたように何か纏まった書き物をするっていうのは慣れやスキルによる差はあるにしても決して簡単じゃあないんです。だから、その簡単じゃあないことに気後れするのは当然のことです。当然の結果に何故もへったくれも無いのですが、人間自分の行動をそのままに受け止めるのは不得意です。過小視したり過大視したりピントが激しくずれてしまいがちです。ですから、この難しさに自覚的な人は意外と少ないと思います。かりに自覚的でも完璧にコントロール出来る人なんてほぼいないのではないでしょうか?

一方で他人とコミュニケーションが取れることは凄く凄く楽しい。蜜の味というと他人の不幸みたいですが、コミュニケーションも蜜の味。ただ、どの方法が最適化という部分では個人個人よく考えて方が良いのかもしれませんね。

ではまた

3億3,360万円!!!あるところにはあるもんなんだよねえ

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おはようございます。ちょっと耳を疑ったもので覚書き的に書いておきますね。

news.livedoor.com

史上初過去最高3億3,360万円!!!

やあだからどうって話しですね。何しろ億の金をポーンと出す立場になったことは無いですもの。

仕事としてのディールであれば日常茶飯事ではあるんですが、個人としてそのキャッシュを見る立場になったことは今だ一度たりともありません。今後とも多分無いでしょう。万というか百円台十円台で気が張るくらいですからね。

私個人のしみったれた財布事情はさておき、こういう威勢の良いお話しが聞けるっているのは凄いことではあります。流石は「すし三昧」。世の中では長い長い好景気でいざなみ景気越えと報じられています。安倍ちゃんのドヤ顔は見飽きましたが統計上本当のことなのでしょう。

ただ、私個人としてその景気を感じることは全くありません。不景気この下ありませんってなところです。お金が無いのにデフレはまずいってことで商品単価だけはじわじわ上がったり様子をみたりという状況を見ています。

一方企業は利益は数字上特定の領域で出ているのですが多くは内部留保か金融商品への立て替えのイメージが先立ち、開発費など先を成長させる傾向が見えません。海外だと国が後押ししてどんどん開発や販促を行っているし、間接的にも強力に法制を変えたり外交で後押ししているのを見て歯がゆい気持ちでいっぱいです。ドヤ顔している場合じゃないんだけどなあ。

さておき、3億ですよ。まあ、企業買収やM&Aだと兆円クラスは珍しくも無い(最近の薬品業界のそれとか)ので比較には妥当な対象という物があるのですが、3億の買い物が正月早々に新しい市場で出ることは素晴らしいじゃ無いですか。

クスリと言えば

別に薬物中毒に陥っている訳じゃ無いんですが、今日は今日とてお医者さんと調剤薬局に行って参ります。初売り、初競り、初詣に比べると初通院やら初調剤なんてのはあまり初物らしくはないのですが、切れてしまうと我が身に降りかかるので行って参ります。

幸いそれこそ私の背丈にあった買い物ですし、先生とも長い付き合いに差し掛かってきました。これも縁ですからご挨拶してこようと思うわけです。

今回もダラダラぐだぐだと書き連ねましたが、そろそろ正月も終わりですねえ。昨日は初仕事だった人もちらほら見かけ、一日出ては土日休みという状況は大変だと思いつつ私は相変わらず所用やらお楽しみやらをしていました。今日は所用オンリーで何かこれからお楽しみを見つけようかと思います。

何こういうのは気分ですからね、何か見つかるでしょう。2019年は幸い天気にも恵まれ続けていますからね。

ではまた

とても辛いとき「何かをしなければ」と焦る思いは持たない方が良い

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本当は題名はこう続きます。”とても辛いとき「何かをしなければ」と焦る思いは持たない方が良いと私はそう思います。これをつけるかつけないか悩んだのですが、タイトルとしては長くなりすぎるという都合で本文と概要に記載します。

さて、遅ればせながらこんにちは。早速お話ししましょう。

何故こんなことを書き始めたの?

端的にそういう悩みを持っている人をWebで近接するからです。曰く「何も出来ない自分が辛い」「調子が悪くて動きたくても動けない。情けない」といった言葉がSNSでブログでニュースで流れてきます。私はそれに対する答えを私なりに持っています。それを伝えたい。それだけの考えで書いています。

タイトルは都合断言口調になっていますが勿論これはどういう考えを持つかはその人の判断です。ですから、私がどう思おうとそれに従う必要も無いのですけれど、少しでも心を和らげるお手伝いになれば良いなとも思っています。

何故なら私は全く同じような思いを抱き、最終的には希死念慮を抱くに至ったこともあったからです。今思えば「生きていて良かった」と疑うこともありませんが、その際は他の言葉が一切届かないほど自分で自分を責めることに傾倒しきっていました。そんな辛いことは全くする必要は無いのに…。

私は他人の事情は分からないけれど

結論だけ言えば、人間死んでしまったらやっぱり終わりなんです。もうこれはそうとしか言い様がないんです。そうというのも、死というのは基本的に一方通行でなってしまった人が戻ってくることは無いのです。無論、仮死状態や奇跡的な生還を一旦は死んだものと仮定して語ることも出来ます。

もし、それが容認されるのであれば、私は精神的な死、自律神経が暴走し、脳が本来働いてはならない領域まで数回数時間沈降し戻ってくるを繰り返す羽目になりました。意思として死を望む以前に意識を残したまま気がおかしくなるような感情と思考の無限の暴雨風の中に身を浸すことになったのです。

馬鹿な話しですが、これは戻れなければ死よりも辛い羽目になると分かりつつ、瞑想よりも深いところを無制御で漂流したのです。

ですから、他人の死や物理的な死傷とは別個の軸で、また理論や想像などという浅薄な階層ではない領域へ足を踏み込んだ私の三週間は、十分死生観を変えるものになりました。望んだ物では無いけれど、人間はそれでも環境に適応する生き物です。

人間の思考や感情、感覚というのは制御の外に置いても勝手に働き続け人間を決して手放さない。主客が転倒しているようですが、私が経験したことはそうとしか表現できないものでした。

人間は生きているだけで凄い

これには反論もありましょう。例えば植物人間になった場合、例えば脳死をを迎えた場合、そこまでいかなくても脳梗塞など様々な理由で身体制御を失ったり、物理的に身体を欠損したりしてもそう言えるのか?

しかし、私はあえて言いましょう。私は生きていたい。少なくとも、私が出来ることをしたと「思うまでは生きていたい」。そこから先は知ったことじゃありません。

おっと、自分語りに過ぎました。ただ、ここで言いたいことはそれではありません。

今、とても辛くて何も出来ないと悩んでいるあなた、あなたが悩むことなど何も無いのです。何故なら「何かをしなければ」と焦る思いには何の根拠も無いからです。何かをするしない等と言っても所詮はお金で換算出来ることか時間で換算出来ることかじゃないですか?

あなたがあなたのためにあなた自身を生かすこと、十分に生きることより大切なことなどありますか?私はそんなこと考えている暇があるなら、寝るなり、喰うなり、ストレッチするなり、何か目の運動でもするなり、好きなことをしていれば十分価値があると思うのです。

自分を味方にしましょう

あなたはあなたのために生きているし、本来それ以上のことを考える必要なんて無いんです。

でも、自分がそう思えない場合、他人では無く自分自身が敵になり意思が残る限り容赦なく迫って責めてくるでしょう。自分というものを敵にした場合勝てるわけ無いじゃ無いですか。それ自体勝負になってないし、意味が全く無いんです。もっと楽にもっと自由に自分を自分で愛してあげてください。それが無理ならせめて自分を仲間にしていくか、中立まで持っていきましょう。

何、所詮は自分なんですよ。昔「ばかの壁」なんて流行りましたけど、見えないし制御出来ないから壁なんです。無いと思えば壁では無くなります。

繰り返します。もっと楽にもっと自由に自分を自分で愛してあげてください。それが無理ならせめて自分を仲間にしていくか、中立まで持っていきましょう。

今回はここまで。ではまた。

「人間、老若男女で事を判断してはいけない」と時々思う

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表題について私が徹底できているかと言えば、「うーん。状況によってはそう出来てないことも多い」と自覚しています。でも、…それでもですね「人間、老若男女で事を判断してはいけない」と思うことも時々あるんです。かっっちりしっかりした断言じゃ無くて申し訳ないんですけど、嘘言っても始まらないんで素直に本当のことを書いています。幾つか思った事例を書きますね。

お年寄りが全て賢くて理性的な訳じゃあないけれどね

Web、殊にSNSを見るとお年寄りや中年以上のご無体ななりふり構わぬ所業に対する怒りや呆れについてのつぶやきなどをよく見かけます。余程腹に据えかねているのか「年寄りは十分生きたのだから金だけ残してさっさとくたばってくれた方が世のため」くらいに吊し上げられています。ひとたび取り上げられると「こんなこともあった」「こんな馬鹿みた」「頭おかしいんじゃね?」みたいな感じで我も我もとお年寄りバッシングが集まります。

私はと言うと「またか」「いつものな」と思いつつ「さもありなん」とも思うし、「全てが全てそうじゃないだろ」と心の中でつぶやいて黙って眺めています。理由は簡単です。人間を一様に纏めてしまうのは暴論であると同時に実際に腹立つことに直面した人にとってそういう事実はどうでもよいことなのです。下手に口出しすると私が吊し上げられて石を投げられるのは必然だからです。

ただまあ、実際酷い目にあわさらたり不愉快に感じた人には「ご愁傷様」とも思うわけです。そういうごった煮みたいな思いはなかなか上手く言葉になりません。

良いなあと思ったお年寄りの事例

本人にお年寄りというのは不敬なのですが、でも若者というのは無理があるのでここはこう書きます。

今上陛下

本日最後の年賀ご挨拶をされたとニュースで伺いました。また、昨年末には思いを以下のようにおっしゃいました。


「天皇としての旅を終えようとしている今、私はこれまで、象徴としての私の立場を受け入れ、私を支え続けてくれた多くの国民に衷心より感謝する」と述べられた。
www.nikkei.com
www.jiji.com
私は昭和に生まれ平和な日本の国で育ち、今を生きています。戦中や戦後直下を知りません。でも、昭和が終わり平成の世になって、そしてその旅を終えるお方からこの言葉を伺い、涙が出てしまいました。今も少し滲んでいます。常に心穏やかに生きていられたかというとそうではありませんが、国という単位で言えば我が国の平和はこのお方がいらっしゃったことと共にありました。

無論「そんなこと知ったこっちゃねえ、ふざけんな」と私の感じたことを真っ向から否定する方々がいるだろうことは想像に難くありません。しかし、それを押して私は陛下に見る人としてのあらん限りの祈りを顧み感謝の極みに達する物があります。念のため恐ろしく蛇足なことを言っておきますがこの思いは右とか左とか何かしらの思想とは関係ありません。私は人として感動したと書いているのです。

三浦雄一郎さん

これからまた新たなチャレンジをされるそうですね。多くの冒険家の方が様々な冒険に向かう訳ですが、それでもやはり一番そのチャレンジに最適な年齢があるんじゃないかと私みたいな素人の門外漢は思うわけです。少しでも囓っている人からは「お前は馬鹿だな」と正座&説教を余儀なくする感想かも知れません。

しかし、三浦さんのテレビを通してのその姿には微塵も不安を感じさせません。何かの間違いでそう伝える機会があったなら、「お前若いのに大丈夫か?飯ちゃんと喰ってるか?」と問われそうなくらい、相対的に三浦さんは頑健で壮健に見受けられます。
www.nikkansports.com
www.fnn.jp

私は三浦さんの性格や過去の業績に明るくはありません。むしろ無知と言ってよいです。それでも、とても惹きつけられますし「何か残したらもう終わってもいいや」なんて目前でほざいた日にはきっと張り飛ばされる気がしてなりません。それくらいバイタリティと強い心の根っこが見えるのです。

だから何?

や、最初に書いた通りです。「人間、老若男女で事を判断してはいけない」と時々私は思うのです。

ここで年配の方の話しだけして終わりに使用とするのは書くのが疲れちゃったからです。

こらっそこ「年寄りばっかり。お前がいい歳だから自分に寄せた記事書きやがって」とか憎まれ口きかない!マジめな話、これの若い版、男性版、女性版書こうと思えば書けますけどね。そろそろ読む方も飽きちゃったと思うのです。そうやって転嫁をしつつ、そろそろ見たいテレビ番組を視聴するまでに間に合わせられるか微妙になってきたので切り上げます。「打ち切り!」じゃないですよ。ブログなんですからね。

ではまた!(*‘ω‘ *)。

ぐだぐだトーク!!第六回深淵のご挨拶・・じゃなくって新年のご挨拶(9分34秒)

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いきなり第六回って何じゃ?と思いますでしょうね。
DACです。こんにちは。

実はRadioTalkというアプリ・サービスでラジオを開始しました。正確には2018年の冬至あたりからです。
今回の第六回は新年のご挨拶は既に記事として書いているのですが、音声版のラジオにだけ出てくる私らしさとか表現、ニュアンスの違いを楽しんで頂ければ嬉しいです。

やはりBGMとかかけていないとトチりやら、緊張がもろに出てるところは、顔から火が出るほど恥ずかしいです。これ、効果音とか入れたり編集とか後付けで出来ないのでしょうか?ぶっつけ本番はきついですー(*‘ω‘ *)。などと言いつつ結構この我がぐだぐだぶりを楽しんでいたりするのです実は。別にマゾヒズムとかに傾倒しているわけで無く、自分の声の録音って慣れないと凄いアホっぽいじゃないですか?少なくとも私はそうなのです。

ですので試してみて直すのが面倒で苦笑しながらアップロードやらリンクを組んでいるんです。

この件に関しては師匠筋である、みどりの小野さんに近く伺ってみたいです。
twitter.com
おのにち簡単人生相談 - Radiotalk(ラジオトーク)
きっとノウハウお持ちの筈です。

まあ、兎にも角にも楽しんで頂ければ幸いです。ではまた!

今年もめでたく生きまっしょい!2019年元旦

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明けましておめでとうございます!

2019年元旦*1です!

振り返り

昨年中も大変お世話になりました。事実上2017年秋から2018年11月まで行動不能に追い込まれていたので昨年のWeb活動、殊にブログはあまり活動出来ませんでした。しかし、その水面下私は藻掻き苦しみ、そして再生しました。特に11月は極みにあり事実上発狂寸前まで行きました。薬剤に頼る生活も4月に始め年を越しまだ終わりが見えてはいません。

しかし、一方では4月に転機があり結果11月後半以降劇的に好転しました。内心も結果もついて来ています。総合すれば災い転じて福と成すがあった、私にとっての巨大な転機でありました。

今年のあり方

あまり大上段に出るのは私には苦痛なので、まずは程々に現状の好転を前向きに進めたいと考えています。

縁を増やし育てたい

地縁、血縁などと言いますが、私は交流は距離や血だけでは無いと思っています。無論最も大事なのは自分であり、配偶者である大事な人であり、次代へ向かい生きていく我が子らです。それは絶対不動です。しかしながら、それ以外の縁を疎かにしてきたことを今更ながら後悔しています。しかし、それが手遅れなどでは無く、昨年だけで貴重で有り難い、本当に有り難い縁に恵まれ続けたということがありました。*2

私はこれからはそういう前向きで優しい縁の持ち方、私が死んでも良いと感じさせられたようなあの苦しみを他の人に感じさせないようなそんな力になれたらと思うのです。思いは重い。でも、そうじゃないのです。私は触れずとも縁は広がり育つ。その中で少しでも助けになればそれは私にとっての救いでもあると思うのです。

知識と経験の共有

こう書いてしまうとと仕事ライクです。でも、仕事も私生活も線はありません。

私は今、海外と英語で日々を過ごさざるを得ない環境で国内で仕事をしています。その流れで上海でも深圳でもミュンヘンでも、はたまた台北でも北米でも行くことに最早ためらいはありません。まあ、パスポートは切れて久しいのですが…。海外だから違う世界というのはあまりに狭い。違う考えは合って当たり前。だから、その上でどうするか?知識と経験はお互いに共有しないとリソースの無駄です。

合理だけが全てではありませんが、私にとって今までが不合理で不条理で成り立っていませんでした、その根源の一端を掴んだ以上私は邁進したいのです。

Web上のあり方

私は一年強の休暇を無理矢理頂き、それでも迎えてくれた友達と楽しくやりたい。居場所を育てたい。だから、その中でも出来ることからやっていきたいと思っています。いちいち書いていたら何文字使っても足りないのでこの程度で止めます。ヒャッハーやるぞ!
hyahha-neta.hateblo.jp

我武者羅に猪突猛進の年に!!

無茶にならない程度にバランスを取りつつも「出来る」「出来ない」ではなく「やる」「やらない」そして「どうにかしてやるために手段を選ばない」方向へシフトしたい*3

ところで猪突猛進と言えば

私の好きな漫画を紹介しよう。


終わりに

読んで下さりありがとうございます!力及ばぬことも多々ありますが、私なりの残す物を作りたいと思っています。よろしくお願いします。

DAC拝(だっくはい)
2019年元旦

*1:うるさいこと言うと日本時間で午前中だそうで、マジでうるせえ

*2:比してそれまでの糞みたいな関係のとある2名の人間のカスもようやくはっきり認識しました

*3:犯罪云々ではない。要は遠慮はしないよって話。時間とリソースの無駄

私の2018年オススメ本!!「あなたのプレゼンに「まくら」はあるか? 落語に学ぶ仕事のヒント」

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こんにちは。今回は2018年に読んだ本の中で特に私の心に残った作品についてを書いていきます。(お題「BOOK OF THE YEAR 2018」

タイトルは「あなたのプレゼンに「まくら」はあるか? 落語に学ぶ仕事のヒント」です。
www.audible.co.jp

実は目で読んではいません、耳で聴きました!

別にひねくれてそう書いているのではありません。事実として、私はこの本を目を使って読んではいません。耳で聴いただけです。

そうというのも、この本はオーディオブック、読み聞かせをしてくれる本なのです。勿論読み聞かせというからには元となる本はあります。

ですから、内容はそちらと同じ筈です。「筈」と書いたのは、わざわざ同じ本を買って確かめているわけではないので推測です。

ただ常識的に言って同じ内容じゃ無ければ同一題名で出すのはちょびっと憚られるのではないでしょうか?

従いまして、より厳密にこの記事はお題に従ってはいない訳ですが、まあいいですよね。

細けぇこたぁ良いんだよって言うじゃ無いですか。目くじらばかり立てて細けぇことを重箱の隅突いているとケツの穴が狭くなります。

おっと失礼。下品な上に同義反復でしたね。

とにもかくにもこの程度のことは、ジョヴァンナさんに限らずこれを読んでいるあなたもOKですよね(*‘ω‘ *)ぐふふ。はい、これも読書です。

私にとって、実を言えば本は結構身近にあって遠い存在です。

よく本は知識の源泉とか、読んでいる人ほど思考が深くなって頭の回転も良くなると言いますよね。また、頭も良くて行動も素早いえらい人なんかが信じがたい速度で本を読んで感想を書いたりしているのをWebではよく見かけます。

速読術とかフォトリーディングとか、読み飛ばし術とかライフハックとか色々なテクニックが披露されています。

私はと言えば、たまに面白そうな本を借りてきてはちょこっと読んでは気が散ってしまって最後まで完読出来ないと言うことを日々繰り返してきました。

そんな挫折と期待の繰り返しの中いつしか私は「本は好きだけど自分には向いていないメディアだなあ」と酸っぱいブドウを見る何かのような心境になっていました。

見栄っ張りな私ですからそんなことはおくびにも出さずなんとかぜいぜい肩で息をするように完読したり、或いは途中で敵前逃亡して銃殺されてしまったり(まあ、生きていますけど)という舞台裏はひたすら隠しつつ、感想を書いたりしてきました。

そういうことを繰り返している中で私はこの本についに今年出会ったのです!出会って感動し、私は、まだ完読、もとい完全聴(ちぢめると浣腸?)はしていません。(あ、石投げないで)

しかし、是非このオーディオブックの存在を私以外にも伝えたいと思ったのでした。

どんな本?

「まくら」にまつわる様々なお話しです。

タイトルにある「まくら」という言葉ご存じですか?ご存じの方もいらっしゃると思いますが、「まくら」は落語の用語の一つです。

他の言葉で言い換えると「つかみ」であるとか「ウオーミングアップ」であるとかそんな感じのものですね。落語ではいきなりお題の噺をを始めることはまず無くて最初に「まくら」から始めます。

「何故、そんな面倒くさい手順を踏むのかしら?合理的に考えれば、いきなり主題を話し始めてなるべく噺を味わって貰うのがいいのじゃないか?」そう思った人がいますでしょうか?うん。実に合理的ですね。

或いは「おいおい、落語に「まくら」があるなんて当然じゃ無いか?アレが無ければ落語じゃ無いよ。物事には順序とかわびさびとか形式美があるんだよ」そう思った人もいるでしょう。

更には私が想像し得ないような「まくら」への思いを抱いた方もいらっしゃるかもしれません。色々とあっても全然おかしくないと思います。

まあ、いずれにせよ「まくら」っていうものは実は噺のための繋ぎといいうだけの位置付けではないんです。

その部分はビジネスにおけるプレゼンなどでも使える技術なり心構えなりにしていけるんじゃないかなあってそういうお話しをこの本では聴かせてくれるのです。

ちょっと興味が湧きませんか?

この本では実際に本の作者が読み聴かせしてくださいます

なんと、この本では実際に本の作者が読み聴かせしてくださいます。落語家「立川志の春」さんが、あたかも落語を一席するような語り口で本を読んで下さるのです。

これ、凄い贅沢じゃあありませんか?

私にとって初オーディオブックでしたけど、こういうのが普通なんでしょうか?

私は読書は苦手でも、ラジオドラマや読み聞かせは連続物でも楽しんで聴いていました。言の葉なんて言いますが、実際に人の喉から、お腹から出てきた言葉というのは聞き手に響くんです。

ましてプロの噺家さんで作者が読んで下さるなんて「おいおい、マジかよ?!こんな幸せはなかなか無いぞ」という幸せいっぱいな心境にくるまって寝転がって聴きながら感動しておりました。

「まくら」は何故大事なのか?

本を実際に聴いて頂きたいのですが、私の言葉で「まくら」の大事さについて理解したことを書きますね。

人は聴く体勢をなかなか取らないし取れません

まず、人ってそんなにすぐ気持ちが他人の言葉を受け入れられるように出来ていないんです。

だって、別人でしょう。そりゃあ、普段から人間は他人より自分です。勿論そうじゃない人がいることも承知していますが、それでも話し始めから前のめりで噺を聞いてくれる人なんてそんなにいません。

元々の大ファンだって難しいのですから、今初めて会ったどこかの知らない人の話なんて左の耳から右の耳へ通り抜けるか、それ以前に言葉であることすら認知されないかも知れません。

あなたはお客の顔、話し相手の顔を本当に見ていますか?

次に、喋る人の立場から言うとやはり客の反応は大事なんですよ。

この人はこういうこと興味なさそうとか、ああこれなら笑ってくれるんだ、なるほどここはわかってくれてるなとか。

そう分かると本題の噺にどう繋げていくか、本題の噺の表現の仕方や構成の仕方、場合によってはオチ、結論の見せ方も変えるなんてことも出来るかも知れません。

そりゃあ伝統的なおはなしや準備したとおりに事が進まないのが気に入らない人もいるとは思います。

でも、聴かないで貰って次にどうにかするなんてこと出来ますでしょうか?

伝えることに真面目に向き合ったとき「まくら」は大事

力業で振り回したり言うことを聞かせる力量や立場があるなら出来るかもしれません。

でも、そんなパワハラ紛いな喋りじゃあ聞き手は嫌ですよ。聴いているふりをして首を縦に振りながら鼻をほじったりあくびをしたりするんです。(まあ、鼻血だしたり怒られたりするでしょうけどね)

私たちが何か意思を伝えるって意外と難しいし、コツ次第でトントン拍子で進んだりするものなんです。

そのコツというものの1つがが噺の「まくら」であり「話しのまくら」なんです。これが伝えるという会話で会って話す上でとても重要な役割を果たす鍵となる存在なのです。

私が言っても説得力にかけるでしょうけれど、この本を聴いてみてください。きっとその楽しさを笑いながら理解し首を本当の意味で縦に振ることになると思います。

私の感想とお伝えしたいことは以上となります。

最後に

実はこの記事は今年2018年最後の記事になる見込みです。ですので、ちょっとしたオマケをつけておきますね。

では、ご挨拶を。今年もとてもお世話になりました。ありがとうございます。朝にもつぶやきました。

本当に辛いことも素敵なこともあった、一言では表せない私にとっての乗り越えるべき何かが沢山あった年でした。
来年もまたよろしくお願い致します。皆様も良いお年を。

記事は終わりますが、色々瀬戸際まで何かやっていると思いますからお相手下さい。今年も来年もその先も尽きるときまで。


DAC拝(だっくはい)

初回限定格安サービスを上手く使える人使えない人

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こんにちは。

さて、こういうタイトルでブログ記事を書くと煽り系と相場が決まっています。少々イラリと来てもつい読んでしまう心理を突く「悔しい、でも見たい」的な困ったお定まりのテクニックです。実際このテクニックを上手く使い続け炎上までに至らず(或いは程々に炎上し)それなり以上の成功を収めたブロガーも結構います。

この記事はそういうブログ世界のくっだらない手垢のついたテクニックの賜物って訳ではありません。

私は「初回限定格安サービスを上手く使えない人」なのでした

そう。賢いつもりで色々と買ったり美味しい思いをしているようなブロガーも実は酷い目にあっていることも結構ある筈です。いや、そ…そうであって欲しい。そうであると…いいなあ。

なんでそんな他人の不幸を期待するかと言いますと、見だし通り私は「初回限定格安サービスを上手く使えない人」なのでした。つまり、やらかしてしまい、なかなか痛い出費を自業自得で支払うことになったのです。ええ正直なかなか酷い目に遭いました。

具体的には二回目の本来の安くない支払いを回避できていませんでした

恥を忍んで書きますね。

ドヤ顔では無いけれどお得に華麗に初回限定格安サービスを引っ越しした筈だったのに

この記事をまずご覧下さい。
www.gudaguda.work
別にドヤ顔だったつもりは無いのですが、今の状況でこれを読むと顔から火が出そうな気持ちになります。文章自体は別に今でも「正しい解釈であった」「良い買い物をした」と思っています。

しかし、良い買い物をしブログを新たなWebサーバで引っ越したはずが、そうはいかなかったのです。前のレンタルサーバサービスは世界でも著名なレンタルサーバの会社です。正直今回引っ越した先は知名度の点では比較になりません。その分私にとっては結構良いお値段、聞こえの良い書き方を回避するとちょっと私にはお高いけれど相場というお値段のところでした。

私はそこと三年前に格安価格で契約しました。それが初回限定格安サービスです。多くのサービスで初回の新規顧客だけの特別価格を拡販材料に提案しています。私はその価格に惹かれ、このアホみたいな価格なら契約しなきゃくらいの前のめりで契約しました。ちょうどブラックフライデーで本当に半端ない値段でした。3年でザッと6000円くらいで30000円超のサービスを受けてきました。当然その頃から初回だけで別のサービスに引っ越しするのを織り込み済みで検討していたのは言うまでもありません。

1.5月前の私は「見事にしてやったぞ!」とご満悦でした

そして3年後の11月の私は我に返って必死に引っ越し先を探していました。その姿をどこで知ったのか知人が面倒を見て下さったのは、上の記事通りです。私は大船に乗ったつもりでしたし、実際私個人では簡単に見つけられないところにたどり着けました。問題は前のサービスの扱いでした。きっと私は気が緩みきっていたのでしょうね。

あろうことか前のサービスについて解約し忘れてしまいました

ほんと、いや本当にあろうことか、やってしまいました。

つい昨日のことです。クレジットカードに見たような会社名と金額31,267円の表示がありました。「身に覚えがあるような無いような、痛いなあ」と暫くぼんやりと状況を把握できなかった後「ハッ」と我に返りました。「してやったり」どころではないのです。「してやられた」訳でも無くまさに自業自得でした。私は上手く引っ越しを出来るほど器用では無いということでした。

サブスクリプション全盛の時代にこれはどうしたものでしょう?

世の中買いきりの物も沢山あります。今もあります。私は比較的そちらの方が安心するオールドな化石的な人間です。

しかし、世の中色んなサービスがサブスクリプション、つまりは期間の間の賃貸料みたいな感じで利用する形式の契約が増えました。実際それらはリーズナブルな求めやすい価格で最新の更新をかけてくれたり、買い切りには無い多くの魅力的な機能を提供してくれます。与えてくれる物に対しての価格はダントツに安かったりもします。物によりますけどね。

Web時代になって久しく情報はタダなんて言われたりしますけれど、それでもサブスクリプションは売れるしそれだけの価値を提供しているのでしょう。

ただ、私の悩みはそれらをどう取捨選択し切り替えていくかです。せっかく機能があっても使いこなせないならお金を払う意味はありません。明確に契約を維持する、契約を止めるの判断が大事です。そうしなければ止まらない血のようにただただお金が流れ出ていくだけという状態となります。業者的には織り込み済みの美味しい果実かも知れませんが、私にとって役に立たないなら意味がありません。

現在契約中の私のリスト

  • はてなブログ 2年契約
  • Webレンタルスペース1 3年契約
  • Webレンタルスペース2 3年契約
  • Amazonプライム
  • Dマガジン
  • 毎日新聞電子版
  • ATOKパスポート
  • NintendoSwitchオンライン
  • 携帯電話代
  • スマホネットワーク代
  • 光回線代
  • クレジットカード年会費

これに加え、過去にはOffice365にも契約していましたが今は入っていません。他にもあったかもしれないので準じ棚卸ししてみます。後は要らない物に付け替えるという考え方をしていこうと思っています。まだまだ頭の整理は出来ていませんが、並べてみるとこんなにあるんだとビックリです。無自覚って怖いですねえ。私だけかな?

とろあえずの棚卸しとして失敗したのは件のWebレンタルスペースの重複分は痛かったけど仕方ないので活用方法を考えることから始めます。きっと一朝一夕に使える人にはなれませんが、痛い目に遭ってぐすぐすしてても何にも変わりませんし頑張りますよ!!(*‘ω‘ *)ほほほ

ブログを書くうえで理想を抱き続けるより遙かに大事なこと

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BLOG
こんばんは。あるいはこんにちは。

今回はクイックに思ったことをまんま書き落としますね。文脈レベルでおかしい場合は後で読み直した際直す可能性がありますが、多分このまんまです。これが真実書き下ろし、いやいやまあ適当に今でっち上げただけなんですけどね。

さて、さっそく表題について結論書いてみますね。

ブログを書くうえで理想を抱き続けるより遙かに大事なこと

そりゃ勿論、実際に記事を書くことですよ。それだけです。

「え?それって当たり前じゃない?!」という反応が殆どと思います。それは私の思うつぼなので出来れば捻った反応が欲しいところです。しかし、捻りすぎると本当に修正不能なデタラメになりかねないので、とりあえずそう反応したものと乱暴に仮定して話を繋げます。

そう、当たり前です。より良い記事を書こうとしているから理想像、至るべきゴールを高くして目指すわけですよね。分かりますよ。私も大抵その罠に引っかかって自縄自縛でうねうねともだえ苦しむのがライフワークですからね。いえ、それだけがライフワークじゃ無いので、まあライフワークの一部くらいにしておきます。

でも、もう少し冷静に考えてみましょうよ

確かに理想は高いというのが一般的と言えます。でもですね、それは本当に至るべきゴールなのでしょうか?もう少し噛砕いて言い換えます。「理想とはイコール至るべきゴール」なのでしょうか?よくよく考えてみましょうよ。べきに強調したのは、そこに違和感を感じて欲しいからです。

少なくとも私にとって理想はあくまで理想という高みであって、必ずしも「理想とはイコール至るべきゴール」ではありません。これも言い換えますと、「それはそれ、これはこれ」なのです。この言葉出典がや使われ方がアレな感じなので何やらとんでもなく胡散臭く思われそうですが、私は理想は現実化するに超したことはないけれどあまり生真面目に「それが出来ないと駄目」まで極端な扱いにするものじゃないと考えています。

私がユルいだけとも言えますが、そんな窮屈な捉え方辛いですよ。それとですね。あまりに理想と現実が乖離していて、一文字も残せない現実が実際にはあるわけです。それ一文字でも書いて残した方がずっとマシですよね。それとも、そんな半端な物残してしまうくらいなら、何も書かない方がずっと良いのでしょうか?

それが、1日、いや1週間2週間ならまあ許容範囲です。しかし、月単位や年単位になった場合どうでしょうか?実際に書いたなら何かが残る。理想に準じて書いては消し、或いは本当に頭の中でああでもないこうでもないやっているだけだとしたらどうですか?実際に書いていた人との差は広がるばかりです。ウサギとカメの話じゃあありませんが、後から追いつけるなんて、普段書けて無い人が考えるのはあまりに根拠がありません。リアリティが全く無いのです。

理想と「あったらいいな」は違う

要は理想と「あったらいいな」「出来たらいいな」を混同して行動をそれに合わせていると結果はいつまでもゼロという話です。もし、思い悩んでいる時間が長いのであれば、その時間は時間の無駄です。だって、思ってはいるものの、考えてはいるものの結局形にはならないし、時間が経てば同じところをぐるぐる回るのです。前に考えていたことですら車輪の再発明の如く思い出しては忘れてでは疲れと時間の消費以外に何が残るのでしょう?

まあ、屁理屈を並べれば幾らでも答えられはするでしょうけれど、私はそれを無意味どころか有害で勿体ないと思っています。私のことでは無いので別に屁理屈垂れたり、鏡に向かって一生懸命言い訳しているような人を説得しようとも思いません。

話は単純でとにかく書いてみましょうよ

それ以上でも以下でも無いです。

えらそうにこんな能書き垂れていますが、実のところドヤ顔ではなく体中にざくざく自分で自傷しているのと変わらないことを書いています。私だって、実は理想だけは誰にも負けないくらい高いのです。むしろ高すぎて現実があまりに残念で絶望を覚えるくらいには非常で非情な差があります。越えられない壁と言いますか、越えられない底の見えぬ谷がそこにはあるのです。

ですから、私は諦めることにしました。「格好悪い?」いやあ、格好悪いのは何も書かないで時間潰す方だと思うんです。こう書きながらざくざくざくざく刺さるのですが、それで良いのです。実を言えば、これは自分への説得なのです。読者にあてているような体で、実際はリバウンドで理想を「べき」と思い込むだろう少し未来の自分に語りかけるつもりで書いています。

と言うわけで、だらだらぐだぐだ書いて約2000文字。中身が無いっちゃ無いですが、自分にはこれむちゃくちゃ大事で貴重なリマインドです。自他共に認める筋金入りのひねくれ者ですからね。

兎にも角にもまずは一文字でも二文字でも記事を書きましょうよ。つぶやきじゃない。記事を書きましょう。話はそこからしか始まりません。そう信じることで何か見えるかも知れないじゃ無いですか?

流石は師走!やばいぜ、私の時間がいつの間にか過ぎまくっている

つぶやきで済むレベルのことを長々書いた
いかにもぐだぐだ言い訳しているけどさ
おはよう、みなさん。

怠けじゃないよ、疲れたよパトラッシュだよ(*‘ω‘ *)ぐふふ

前回ブログ更新から10日も経過しています。気付いたらというより、気付いていたけど手が付かなかったと言いますか、下書きも書きかけて腐らせたと言いますかとにかく時間の使い方について私は残念な部分があったというだけのお話しです。一番大きな理由はCT検査や血液精密検査を受けるような緊急事態が11月中旬から計4回あったというのがあります。や、CTも血液検査は最初に救急搬送されたときだけなのですが、その後のハイストレス「、低血糖によるメンタル面肉体面での自律神経失調的な状況は辛かったです。脳が焼き切れる…そう心底感じたのは生まれて初めてのことでした。

さてはて、これは別にご心配をかけたり、哀れみを請願するものではありません。ただの事実であり、私が行動不能に陥った背景の一つに過ぎません。現実問題、自律的な行動のコントロールをいつ失うかが私には分からないだけで、ほぼほぼ治った気分でいる時間の割合は多いからです。正直なところ、あの脳が焼き切れる感覚を3度味わいのたうち回りか細く助けを声を上げるしかない状況はできる限り避けたいです。ただ、数回治ったと思ってはそれが甘い認識であるということを繰り返したので今もって私は自分が回復基調にあるのか、それとも瀬戸際で小康状態なのかは分かりません。

下手に引きこもるとあらぬ妄想に囚われ悪化することは想像に難くないので、12月は出来るだけ日常っぽく振る舞うことにしています。

タスクは溜まる、雪の如くふわふわと舞い散りどっしり溜まる

でまあ、平日に4日完全行動不能、加えて養生に計3日使うと色々やらねばならぬタスクが溜まるのです。一個一個はふわふわと舞い散る雪の如く始まりますが、気がつくと「うわー」というか「ぶわーーーーー」っと視界を白く染め、地に落ちて溶ければ良いのに踏み固まったりして存在感ばっちりの塊と化すことも多いのです。

ざっくり大まかに分けると5つです。

  1. 自分の生命活動
  2. 家のお仕事、イベント、人間関係
  3. 会社のお仕事、人間関係
  4. 自分の趣味、人間関係(海外系も含む)
  5. 身の回りの地域のお仕事、人間関係

どれも大事ですが、上から優先度が高く超えられない壁が厳然とあります。それはそうと、行動不能だった期間が長くなるほど、タスクは溜まっています。勿論、私個人がいなくなろうが世の中は十分平気で普段通り回る訳です。

しかし、「私にとっての世の中」はそうでもありません。脳が焼き切れそうな状態に陥り、椅子に座ることも出来ず、床でぺったり脱力して息をするのがやっとだった状況を、物理的に側にいる身の回りの殆ど全ての人が知っています。死に怯え、自らの中の内省が全て自分を蝕む悪罵と妄想しいっそ意識を手放せれば楽になるのにと涙を流しながら人外の何かに縋り懇願したり、倫理的に口にしてはならぬ事を吐き出したりしたことも家族と医師達は知っています。その状況にあって彼らがしたのは現実を見ることであり、私を私として取り戻すための様々な献身と介護でした。

ですから、私はそれに少しでも報いたい。もう絶対に無理と思うことをして貰っています。ですから、出来るだけのことはしたいし、必ずします。そのためには自らの身体や心は最優先し安定させていく流れになります。

とはいえ溜まりすぎ

空き時間を見つけては様々なことをしています。あまり優先度が高くないTwitterやBlogも私の日常の一つです。あまり集中しすぎると脳だか頭だかがヤバいという感覚を察知するので程々にしています。ただ以前よりは纏まった内容を書くことが出来ている気もします。

長い言い訳でした。

とはいえ、実のところWebに言い訳する必要もあまりないのです。私の現実を知ったところで、結局はテレビで扱う芸能人の離婚や浮気、誰かが逮捕されたとかのニュースに「他に報道することあるんじゃないの?」と思う程度に遙かに及ばぬ程度に個人的なことですからね。私は自分が書きたいから書いているのであって、その結果が良い面で消費されればお互いラッキーでハッピーだし、そうはならないケースの方がずっと多いと信じています。

ですから、もしも万が一私を案じている人がいるのなら「すみません。私は人間不信の塊ですから常に家族と自分以外は信用していませんが、あなたのことは大好きです」と伝えたいです。まあ、無い物ねだりという奴ですね。

最後にお願いがあります

お酒は飲めませんが、ささやかな忘年会みたいなものが出来ると嬉しいです。今の私はそういう心境です。そうすることで私は救われる部分がきっとあるでしょう。

ただまあ、なんと言いますか普段ネットでお付き合いしていない初見の方は怖く感じてしまうのでご容赦下さい。年末年始のこの時期です。とても厳しいと思いますがアレンジにご協力できる方いらっしゃいましたら、Twitterで話しかけて頂けますか?(ブクマコメントははなから読んでないのでそちらでのご連絡は無理です。申し訳ない)

文章の整合性?いやいやそうじゃないですよ。単に「会いたいな」を伝えるにもエクスキューズやまくらが長い面倒くさい人間なんです、私は(*‘ω‘ *)<にゃふーん

とある「健康系ブログ」の紹介-Introduction the Blog named "Health Blog-"

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注:本記事はまず英語で書きました。後で日本語版を追記予定です。(必ず書きますので)
Note:First of all I wrote & published this article in English as below. Next time I'll translate this in Japanese.

Hello, all my Blog "Guda Guda Works"'s visitors !
This article is the introduction of "Health Blog -" & "an interesting article '10 Proven Ways To Help Keep Calm Under Pressure'" as above the title (Japanese & English description).

What's the Blog ""Health Blog-"

Meant as reference material only

I'm not sure, because there's not any self introductions/agendas. But they say "The content on this website is meant as reference material only and not as medical or professional advice. Your usage of this website indicates your agreement to these terms. Copyright © 2018"at the bottom of each page's footer. Then if you read on the assumption of reference material, I think that it is a very useful blog in that range.

But, there may be"Evidence based health and fitness"

In addition, their Flipboard "A Health Blog on Flipboard | Diets, Omega 3, Blood Pressure"'s subtitle show as "Evidence based health and fitness". I feel that this conflicts with the provision that it is only for reference. However, if you turn backwards, it suggests that there is some assurance in the materials on health and fitness on Blog.

To tell the truth, I don't know the details of this site、But...

To tell the truth, I do not know the details of this site simply because it is a blog owned by an account that became Follower for my Twitter account.

However, I liked this blog very much only through the first visit, I was curious. There are already various articles, but the following articles seemed very useful for me.
www.ahealthblog.com

As shown in the figure below, we are making it possible to intuitively understand details with infographics. At the same time I explained the explanation with texts I thought it was very easy to understand, not long enough and short.
10 Proven Ways To Help Keep Calm Under Pressure

Image via: AHealthBlog

I think that there may be a possibility that

For my very poor introduction, I am sorry a bit for all readers & author of that Blog. However, if you are still interested in my explanation, it will be nice.

I think that there may be a possibility that it is useful for those who have the idea of ​​wanting to take rest as effectively as there is something tiring like me.

Thank you for your time of reading.