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気をつけよう!Webには「煽らないと死ぬ病」や「逆張りしないと死ぬ病」の重病患者が沢山いる

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こんばんは。このタイトル自体が煽りっぽく読めてしまう人、ちょっとヤバいです。いや、かなりヤバいです。Webは煽らないと死ぬ病や逆張りしないと死ぬ病の自覚症状が出ている人じゃない場合は「あー、よく見かけるよね!」って思うだけでこのタイトルに感情を揺さぶられる要素全然ありませんからね。

「謝ると死ぬ病」って例えがありますよね

「謝ると死ぬ病」とは、何かとんでもなく間違えていることをやらかしてしまって、誰がどう見ても間違いが明確であるのに関わらず「ごめんなさい」の一言が絞り出せない人を揶揄した表現です。

実際にそんなことで死ぬほど人間は変な性質を持ち合わせていない筈ですが、まあとにかく謝ることは絶対にしないのです。もう少し穏当な表現をするなら「謝るととことん敗北したような心持ちになるのが惨めで嫌だから謝るという行為は出来ない心持ちになっている」ということじゃないでしょうか?

ただ、実際のところその内実は多様であると思います。同じように揶揄されていても「これはどうなの?」と思うくらい病的なほど謝罪を忌避するケースもあれば、なんか寄って集って煽られまくって「これは謝る気にならないんじゃないかな。気の毒に」と思うケースもあります。共通しているのは、この表現を繰り出すのは100%優勢でどこをどういたぶってももう反撃は無いと確信している側であることと、傍で見ていると胸糞悪くなるところです。

確かに衝突し話がこじれた際や理不尽な目に遭った際に感情が高ぶってしまい、自分で歯止めが聞かなくなってしまうというのも分かります。でも、追い詰めてマウンティングしていたぶるあたりまで行くと、損得関係の無い立ち位置で冷静に眺めると「つまんないことに拘っているなあ」と内心思ってしまうことも少なくありません。

Webがもっと意味のある前向きなもう一つの世界になっていくことを信じていたときが私にもありました

今でこそすれっからしみたいになってしまって半グレ状態の私ですが、Webという場所がまるで希望に溢れた開拓地のように思っていた頃がありました。商用のパソコン通信の妙に狭っちい縄張り感や自意識肥大な古株が牢名主みたいに振る舞っているのが嫌で嫌でしょうが無くなった頃、WWWが一般向けに普及し始めました。ですので、私は何にも無い荒野みたいなWebならパソコン通信の隣組みたいな陰湿な繋がりから解放されて、より自由で良い場所が出来ることを期待していました。

でも、結局のところ場所が新しく作られようが、その場所で遊ぶ人達の心の持ちようや行動が変わらない限り同じなのだなということをすぐに思い知りました。人が少ないときは、他の人と言葉を交わすだけで何か同志みたいな連帯感を妄想したのですが、それは結局ただの儚い妄想でした。人が増えるにつれ、結局そこにいる人達の自意識肥大は燎原の火のように燃え広がりました。結局、私が忌み嫌った隣組みたいな息苦しさは、規模を大きくした分だけたちの悪い物となってのしかかるようになりました。

私自身も、承認欲求は人並み以上に肥大していましたしやることなすことろくでもありませんでした。今も性根は変わらないので同じ穴の狢ではあります。要は同類相哀れむじゃなく、同族嫌悪や自己嫌悪です。

気をつけよう!Webには「煽らないと死ぬ病」や「逆張りしないと死ぬ病」の重病患者が沢山いる

さて、ようやく表題についてです。「謝ると死ぬ病」もなかなか厄介な行動ですが、それより遙かに面倒くさくて近づきたくないのが「煽らないと死ぬ病」や「逆張りしないと死ぬ病」です。読んでみたままで、普段から他の誰かを煽っていないと気が済まなくなってしまったり、とにかくへそ曲がりで他の人の言うことの逆張りをしないと気が済まなくなってしまったりするのです。

別にこの症状自体は普段からWebを使うような人にとって風邪みたいなものです。ほぼ必ず罹(かか)ってしまうし、直ったり、また罹ったりを繰り返すものです。それだけならぎりぎりセーフ。ただ、慢性的になると話は別です。重病になると四六時中他の誰かを煽ったり、逆張りしていないと自分を見失ってしまうほど不安になったり、自分の価値が下がるように信じ始めてしまいます。

自分で無い誰か、親しい誰か以外が重病の「煽らないと死ぬ病」や「逆張りしないと死ぬ病」でのたうち回るだけなら、正直私にとってどうでも良いのです。私の視界や行動範囲内で干渉してこなければ、知ったことではありません。

しかし、この病気にかかった人には自分以外の媒体となる相手が必ずいます。煽るためには煽られる対象が必要です。逆張りするには逆張りされる対象が必要です。言葉を選ばないで表現すると、この病気は他者への寄生を前提として自分が少しでも気持ちよくなるために好きに宿主がすり切れるまで使おうとする病気なのです。宿主にされた方はたまりません。

更に度しがたいのは、この病気はターゲットにされた宿主や傍観している野次馬に極めて高い確率で感染することです。

Webにはこの病気に罹った重症患者が沢山徘徊しています。そして、何をどう間違えたのか重症患者ほどいっちょ咬みで色んな事に一言言うと喝采されたりするものだから、変に味をしめてますますもっておかしい方向へ突き進んでしまったりします。

そうなるともう駄目です。煮ても焼いても食えない危険なWeb有名人になってしまいます。まかり間違ってそういう人に近づいたり噛みつかれると無意味に時間や精神が消耗され感染リスクが高くなります。「なんか人気があるみたいだけど、この人ちょっと変だなあ」と少しでも感じたなら即座に逃げ出すことを強くお勧めします。

Webなんて楽しんだ者だけが幸せになれる場所なので、はなっから議論や共感を期待してはいけません。それはあくまでとってもとっても幸運に恵まれた結果であって目指すべき目標、目的ではありません。まして、「煽らないと死ぬ病」や「逆張りしないと死ぬ病」の重病患者が沢山いるWebでそういう隙を見せるのは、活きている地雷原をスキップするのと大差ありません。少し臆病なくらいがちょうど良いのだと私は思いますよ。

よく仕事上の面倒くさい人は指摘されるけど

確かに仕事上の面倒くさい人というのも厄介ですが、縁もゆかりも無いような人が通り魔のように糞リプを送ってきたり、或いは知識もろくに無い分野のことでトンチンカンなことを主張して「何か言ってやったぞ」的に振る舞う一言居士がネット上には腐るほど一杯います。おかげで大抵の人はその病気に冒されている体たらくです。人の振り見て我が振り直すのは難しいかもしれませんが、そんな幼稚な言動は結局自分にとって損だと思います。

この本に載っているような困った人と同根なので参考にいかがでしょうか?

助けて!だれか静電気防止出来て且つ邪魔にならないツール教えてください

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「!」とつけていますが一分一秒を急ぐお話しではありません。緩やかな募集【緩募】です。勿論早く良い物を教えて頂ければとってもとっても嬉しいです。(*‘ω‘ *)

Twitterでもつぶやきましたが。。。

しかし、一切反応が頂けませんでした。弱小アカウントの影響力の無さなのか、はたまた誰も興味をひかなかったのか、アピール力が足らなかったのかわかりません。

今日も今日とて「ビリッ」と来て「イツツッ」ってなりました

まだ冬というより秋なんですが、今日も静電気で「ビリッ」と3回ほど痛い思いをしました。これが他の人と比べて多いのかどうかは分かりません。ただまあ毎年寒くなって乾燥してくると静電気で悩むのです。

悩みと言いつつも、これまで生きてきて一回も何故静電気が起きやすいのか、防止する方法が何かあるのか無いのかといったことを調べたことがありません。ただ、痛い目にあった直後に思い出すのです。「もうビリッと来なくなる方法が無いかな?」そして、少しすると忘れてしまいまた油断しているときに見透かしたように「ビリッ」っとなるのです。まあ、仮に警戒していたとしても金属に一切触らずに生活するというのは難しいですし、窮屈です。

私がこれまでやってきた対策は

2つほど対抗策を講じることがあります。

乾燥を解消する対策

まず、乾燥が良くないのだろうから水分を手に付けて湿らせれば良いだろうと考えました。でも、これ実践するの難しいです。いい加減いい歳なので基本的に身体はカサカサです。若いときに意識したことはありませんでしたが、子どもを見ていると瑞々しいというか手を握ると本当にちょっとジメッとした感じがします。きっとそういう年代であればこんな目にあまり合わないんだろうなあ…などと勝手に思い込んで羨ましがっています。話を戻しますと、わざわざ湿らすのは結構大変です。水道で水で濡らしても手を拭いてしまうとすぐに乾いてしまいますし、手を拭かなでビトビトにしておく訳にもいきません。

よくスーパーマーケットや役所の窓口側に置いてあるような海綿でも買ってきて、指をぬらす案も思いつきましたが、すぐ忘れてしまうし面倒なのでまだ実行したことがありません。そうそう。身体が乾いている証拠の一つにスーパーでビニール袋を貰うとなかなか開けないんです。海綿で濡らすと嘘のように簡単に開くことが出来て、初めて海綿を使った時は大層ショックを受けました。身体が乾いてくると色々損なのだなあと実感した瞬間です。

身体にたまった電気を放出する対策

普段から金属を触っておくとか自分の身体に堪った電気を放出するという方法も考えました。ある程度は効き目があります。世の中にはそういったことをするためのアクセサリを販売していたりするのも知ってはいるのですが、海綿と同じく購入に至っていません。

それにやっぱり面倒くさいし忘れてしまうのです。結局、油断してしまって「ビリッ」となってしまいます。

私が求める対応方法の特徴は

私が求める対応方法の特徴は以下の3つです。

  1. 邪魔にならない
  2. 装着感があまり無い
  3. 面倒くさくない


「要求ばっかりで怠け者でしょうがねえ奴だ!」と思われるかも知れないですね。でも、私は習慣にまで落とし込んで身につけていないものは継続して実践できるほど記憶力も耐性も無いのです。誰かそういう特徴を持った方法をご存じでしたらお教え頂けますでしょうか?同類相哀れむって言うじゃ無いですか。助けると思ってよろしくお願いします。

ちょっと元気がないときに役立つつぶやき方

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こんばんは。ハッピーハロウィーン!今日が本番です。渋谷や山手線内では毎度イカレた所業をしでかす人達が出没していると思います。まあ、私は遭遇しないことを祈りつつ帰途についています。

元気がないときにTwitterでつぶやく手順

本当に元気がない場合は、回線切って布団で寝るなり病院に行くなりするのが最善と私は思います。

しかし、今回の話はそこまでいきません。「今日はちょっと言葉の出が悪いなあ」とか「なんかよく理由が分からないけどイライラしてネガティブ思考になってるなあ」とか思うくらいのとき用の話です。

Twitterでつぶやく時には段階を踏むと良いかも

Twitterには色々使い方があります。

あまり元気がないときに向いていないつぶやき方

数ある使い方の中でも、元気がないときにいきなりやるには向いていない物があります。具体的には、他者へのリプライや単独のつぶやきです。

「それこそTwitterの本懐だろう!」とのツッコミごもっともです。私も強くそう思います。しかし、元気がないときにいきなりはあまりよろしくありません。

何故ならそういうときはとかくネガティブな反応に偏りがちだからです。他者へのリプライでネガティブに偏ると相手は仰天します。「なんでそんなこと言われなきゃあかんの?」そりゃ分からないでしょう。勝手に機嫌が悪くなって、関係ないのに八つ当たりされているのですからね。

一人でのつぶやきも同じです。一つネガティブなことを書くと、どんどん心の中から湧き出してネガティブスパイラルから地力では抜け出せなくなります。付き合わされるフォロワーはたまったものではありません。

私のオススメなつぶやき方

自分のオススメは、他の人のつぶやきやRTをがーっとFAV(今はイイネ!って言うんでしたっけ?)またはコメント無しのRTをバンバンし続けていきます。少しでも自分が楽しくなるつぶやき、好きなつぶやきだけを選びます。

勢いがついてノッテきたらコメントを入れていきます。そのうち面白いと他の人が思うものは自然と反応が出てくるのでリアクションをすると少しやりとりが繋がっていきます。

大きな拡散を意図的に狙うには向きませんが、自分の感じたことが繋がりを持つという快感はいつも楽しい物です。気がついたら意外と気分がグッとマシになっているんじゃないでしょうか?

気休めかもしれないけれど

勿論これが万能薬でないことは私も重々承知しています。ほんの気休めかもしれません。

でも、私に限って言えば、この方法で結構助けられたこともあるのです。ですので騙されたと思ってやってみてはいかがでしょうか?

お腹を抱えて笑うような何かを求めるというのも良いですよ!

ひとしきり笑ったら、少し気分があがっていると思います。ウオーミングアップには色々な方法があります。お試しください。

Twitterの「イイネ!」機能、はてなブックマークの「idコール」機能なんて、さっさと削れ!

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こんばんは。今日も今日とて、夜の東京をテクテク歩いていた私です。比較的元気です。

Twitterの「イイネ!」機能の廃止検討の噂

ところで、最近Twitter社がTwitterの「イイネ!」機能の廃止検討をしているという噂を目にしました。

Twitter社の当面の姿勢

火元は創業者の一人のドーシーさんとのことですけどね。どうやら公式には否定しているらしいのですが、人の口には戸は立てられないと言うことでしょうか?

そもそも何で無くすこと検討しているのかしらん?

「イイネ!」機能は健全なSNSのためにはない方が良いということだそうです。公式の中の人がどこをどう不健全に考えているのかさっぱり意味が判りません。確かに沢山の「イイネ!」が付くと特に見たくない内容でも強制的に見せられてしまうとか、「イイネ!」自体フェイクニュースを拡散するのに便利だろうとか、「何だかなあ」な面はあります。

個人的には別に「イイネ!」数で評価付けする機能は要らない

究極的に個人用ブックマーク機能があれば良い

私が「イイネ!」機能で必要としている部分を究極まで絞り込むと、ブックマーク的に私自身が後で読み直すことが出来る印付けの機能だけあれば良いですよ。

確かに読んだつぶやきにすぐさまコメントが入れられないから、つぶやき主に「読んだよ」と伝える機能は有難いです。でも、そもそも相手にとってその「読んだよ」的な記号が邪魔になることもあり得ると思います。ある種の気持ちの押し売りですからね。

数字集めとか他人の目線とかいちいち気にしてたらつまんない

それに私は「読んだよ」以外に「イイネ!」の意味や「ナニコレうんこ?」の意味などネガポジ構わず使っています。よく新聞記者やらジャーナリストが保身だか保険だかのために「RTやイイネ!、リンクは必ずしも同意を意味しません」とかみっともない自意識過剰な但し書きをしていますが、個人的には当たり前すぎてそんなこと書く意味が判りません。そんな面倒くさい誤解をされるくらいなら、「イイネ!」はそれをつけた当人以外に見えなく出来れば良いのにとすら思います。

SNSはアカウントとアカウントの間で関係性を作ってコミュニケーションが自然発生的に起こりやすくすることを主眼に作られたプラットフォームだろうと私は勝手に思い込んでいます。しかし、現実はコミュニケーションより拡散のしやすさや数字集めの道具として誘蛾灯に寄りつく蛾のように人が群がって成り立っているのが実態のように見えます。勿論これは私の偏見に基づく勝手な解釈ですが、当たらずとも遠からずなんじゃないでしょうか?

おっと、寄り道が過ぎました。挙げた例に常日頃からムカつくものがあるのでつい毒づいてしまいました。とにかく個人的には記録機能だけあれば「イイネ!」がどうなろうと構いません。

ブックマークと言えば、はてなにも行き先を見失ったサービスがありましたね

ソーシャルブックマークという立て付けで、ブックマークなんだかTwitterの出来損ないなんだか分からないようになった「はてなブックマーク」というサービスです。多くの人が興味を持って、人力でタグやら評価付けやらを行うことでより良いコンテンツほど目立って閲覧者を集めることが出来るだろうということで非常に人気を博しました。

しかし、現実のところはそうなってはいませんでした。確かに閲覧者集めとかブックマークの数集めに必死になる人が増えました。一方で、ブックマークを利用している人達の嗜好や考え方の偏りはどんどんおかしくなっていきました。目利き的な人ばかりが集まってフラットに評価付けをしているなら良いのです。しかし、常連的に集まるのは吊し上げたり嫌味なことを書いてはいっぱしの評価をしているつもりの人ばかりになっていきました。

はてなは、その当初からidで対象に伝達を行うことでコミュニケーションを促進する機能を標準的に各サービスにつけていました。しかし、これもコミュニケーションではなく、罵倒やら嫌がらせの手段として使われる方がどんどん多くなっていきました。なるほど有意義な使い方をしている例も探せばあります。けれど、出自がブックマークで文字数制約もきつい上にストリームみたいな連続性も担保出来ない言い切りのツールにidコールなんて機能を付けたらますますどうしようもなくなるのはわかりきっていたはずです。

どうにもならないところまで来てようやくはてな運営にまともな感性の人が入ったのか、更なる狂気に突き進むのかは私には分かりません。とりあえずのところは良い話だと思いますが、「はてな」には期待を裏切られた記憶の方が圧倒的に多いですから期待はしていません。

なんにせよ棚卸しや方向転換は手遅れにならないうちに早めにしましょう

Twitterにせよ、はてなブックマークにせよ、遅きに失した動きだなあと私は思います。

今ある物を棚卸しして、何が必要で何が不要かを見極めて方向転換するのはとても勇気がいることです。でも、何のために用意したツールなんだろうという原点に立ち返れば、自ずと方向性を定められるのではないでしょうか?ウィンチェスター・ミステリー・ハウス(今回のタイトル写真)みたいになってからではどうにもならないですよ。

ちょっと古い本ですが今のネットも大差無いのでこういった本はいかがでしょうか?

きっと「ああ、よくいるよくいる」と思うはずです。ネットは日進月歩のように語られて持ち上げられますが、その実は中にいる人間が殆ど行動を変えないのでむしろ停滞し、衰退しているんじゃ無いかというように私は感じています。

また歩き始める。。。

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こんばんは、良い夜ですね。

今日は久しぶりに帰りがけウォーキングをしてみました。実に1年半ぶりくらいです。単に気分がそういう気分だったと言えばそれだけですが、それっぽい理由も幾つか思い当たるのでそれらについて書いてみます。

理由1:会社の机を掃除していたら、Xiaomiのmi band2を見つけた

mi band2とは歩数計、心拍計、睡眠計機能の付いたスマートバンドです。以前ウオーキングのお供に愛用していたのですが、紛失したと思っていたものです。ウォーキングをしなくなって、存在そのものを忘れていました。
Gearbest mi band2
mi band2

たまには机の中も掃除しなきゃと引き出しの中から要るものと要らないものを分別していたら発掘しました。有難いことに充電用のコードもセットです。

懐かしくなって充電してスマートフォンにBluetoothで接続したところ、メインの機能は十分動くようです。残念ながらバックライトが付かず、バンドの画面上は表示が殆ど判読できませんが、計測結果は記録されるます。スマートフォン側に同期しているのでさほど問題とは思いません。まあ、どうにもならなかったら後継のmi band3が表示機能や操作性を強化して販売されているのでそちらを買い求めても良いかもしれません。安いしね。
Gearbest mi band3
mi band3

こうなると実際に装着して歩いてみたくなりました。会社の中でウロウロしてもあまり面白くありません。外を久々に歩いてみたくなるのは当然の流れです。

理由2:ブログ友だちがウォーキングしてて楽しそう

ブログ友だちの牛さんが最近筋トレやらウォーキングやらにハマっています。
www.holstein-ojisan.com

Twitterのつぶやきやブログ記事が楽しそうでついつい自分の経験を語りあってしまったり、これまたウォーキングが懐かしくなりました。

ウォーキングに限ったことではありませんが、身体を動かすのはとても楽しいことです。始めるまでが億劫ですが、動き出すと快楽的な要素が出てきます。

これはやってみないと実感できないでしょう。ですが、過去に少しでもまとまった期間にやったことがあれば賛同してもらえることと思います。

理由3:天気が良かった

それがどうしたと言われそうですが、この要素は馬鹿に出来ません。雨や風に対抗して歩くのは非常に難しいです。物理的にもですが、何しろ精神的にマイナスです。

秋になってめっきり気温も下がりましたが、上着を着ていれば気持ちよいくらいの気候です。会社を出て顔に当たる空気の感触で、今日は良いかも!と思い、その足で歩き始めました。

タイトル画像はなーに?

これはJRの東京駅です。通りがかりに見て懐かしくなり、ちょっと寄り道して撮影しました。夜景が綺麗に取れるカメラを持っていないのでスマートフォンでパシャリ。
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でも、気軽に撮れるのは良いですね。

山もオチもないけれど

また気が乗ったら歩いてみようと思います。やっぱり歩くのは楽しいですもの。

皆さんは普段身体を動かす機会がありますか?勿論生活しているだけで身体は動かしますけれど、少し気分を変えるには歩いてみるのは良いですよ。頭の中が軽くリセットされます。

社会的に無能?いいえ、「可能性はいつだって私たちの手の中」にあります

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デジタルガジェットを使う技能が無いことが「社会的に無能」?

Twitterで見だしのような趣旨のつぶやきを目にしました。残念なことに、「デジタルガジェットなんて難しいし面倒だし触りたくもない」という人は少なからずいます。そして、彼らの多くは「そんな物を使わなくても出来るから使えなくても良いだろう」と高を括るところがあります。

しかし、今時デジタルガジェットをある程度使いこなせるようでなければ、本当は楽を出来るところを色々と遠回りすることになったり、仕事を選ぶ範囲が狭まってしまいます。件のつぶやきにあるようにレジやPOSを使いこなさなければならない職場では、教育に時間をかけ過ぎるとコストが高くパフォーマンスが低い人材と見做されてしまうのも仕方ありません。そういった状況に陥ることだってありうるのだから、最初から熟練している必要は無いけれど拒絶せず順応力を高めておく必要性があるという意味で半分同感です。

ただ、私は一概にデジタルガジェットを使う技能が全てだと思っていません。また、デジタルガジェットを使う技能だけで他者と差別化出来る期間は最早賞味期限が見えていると思っています。その観点でデジタルガジェットを使う技能が無いことが「社会的に無能」と断じてしまうのはそれに依って立ちたい人達の認識をを窓わす極論で、その技能の上に価値を見出そうとするのは砂上の楼閣の上に居場所を求めるような危うさを感じます。

コンビニエンスストアの店内業務は恐ろしく多岐に渡る上に大量にあります

なるほど日本のコンビニエンスストアの店内業務を行う上ではレジやPOSの滞りない使用、各種電子マネー、多機能コピー機、コーヒー等の自動什器の清掃・充填などへの対応といった情報端末、機器の操作は勿論、お客の待ち行列の効率的な対応、接客態度、2500種以上の取扱品数の陳列、在庫を含む数量・価格・配置の把握、商品ロスの廃棄処理、店内・ゴミ箱・イートイン・窓・床・トイレ・駐車場・調理場所の管理、季節イベント企画やチェーン本部指示の企画への対応、他にも色々と挙げていけばキリの無い程の仕事量と種類があります。

確かにスムーズな売買のためにレジやPOSは基礎技能ですが、それ以外の多くのことを疎かにして良い訳ではありません。その全てに顧客が許容する範囲で適応できることがコンビニエンスストアの店内業務では要求されます。その中でレジやPOSのような一部分の仕事だけを取り上げても偏っています。

その要求される過大なまでのサービスや作業量に比して収入が低いため、若い日本人はコンビニの店内業務を選択しなくなっています。今となってはコンビニの店員と言えば、外国から来た方が大半を占めています。衰退しつつある日本にわざわざ勉強や仕事に来る以上、彼らが元から情報端末に精通している訳では無いように思います。また、仮に日本の若者であったとしても機械に詳しくない子たちも一定数以上実在しています。

高齢者で今まで仕事上あまりデジタルガジェットに縁が無かった人が急にコンビニ店員をせざるを得なくなる状況が増えて、目にしがちになりました。だから、彼らがコンビニエンスストアの店内業務を行う力量や資質が低いということは否定できません。しかし、だからといって殊更に”彼ら高齢者だけが「社会的に無能」とすること”も”レジやPOSのような業務の一部だけが全てのように拡大しているように見せてしまうこと”も無理があるのです。

身体一つで放り出されたとき、すぐさま何が出来何が出来ないのかがその人の能力でしょう

私は自分の身体の外にある何かが常にあてになるとは思っていません。

一つ状況を変えてみましょうか?あなたは日本では無く通信インフラも発達しておらず、電子機器を持ち込むことも困難で、言語も風習も異なる土地へ行かざるを得ない状況になったとします。そのとき、すぐさま自分が何が出来、何が出来ないのかを把握し、自分が生きるために実際に行動して結果を得ることが出来ますか?

私が思うに、それがあなたの能力です。「通信インフラや電子機器が無いから何も出来ないよ」と日本語で愚痴を垂れたところで誰もあなたを相手にしません。仮に言語能力はあったとしても、それだけでは駄目です。相手にとって利益をもたらすような何かを行動の結果として示さないことには、排泄をするだけのゴミ扱いされてもおかしくないでしょう。非常に残酷な言い方をしますが、その能力を持たない、持とうとしない人は、仮にデジタルガジェットやネットを使う能力があったとしても「社会的に無能」と判断されてしまいます。多数決的に判断するならば、世界の観点で捉えるならば、まだまだ圧倒的にアナログで物理的なものに支配される構造が主体なのです。

私は「通信インフラや電子機器」を低く評価しているのではありません。ただ、それが全てではないし、それが使えるからといってそれ以外の能力が必要なところで役立つ訳ではないということです。いずれもあればあっただけ役に立つ技能や技術なのですから、いざというとき使えるように準備しておくことや、すぐさま出来ずとも拒否反応を示さず順応可能な範囲を見極めて実行することが大事なのだと思うのです。

しのさんも、この点は個人の資質と切り分けをされています。


その人がどう捉え、判断し、変化に対応出来るかどうか。変化を嫌がるのは人間の本能だと思いますし、いかにそれに立ち向かい乗り越えるかは万能薬が存在しない大きな課題です。

デジタルガジェットを使う技能だけで他者と差別化出来る期間は最早賞味期限が見えている

冒頭辺りにこう書いたことにカチンと来る人もいるでしょう。これはあくまで私の考えで、決定的なことではありません。しかし、ある程度の根拠はあります。

「今存在するデジタルガジェットは完成形でしょうか?」この問いには多くの人は首を横に振るでしょう。その通りです。技術はどんどん進みます。今存在するデジタルガジェットは人間が操作する無駄な部分が多すぎます。今の技術ではまだ乗り越えていない煩雑な操作はいずれ不要になっていくでしょう。勿論、人が必要な部分というのは常に残り続けるのですが、それでもガジェットの操作の特殊性や煩雑性が解消されていった暁には、操作技能などというもの自体人間が関わると効率が下がるような領域まで突き詰められるだろうと思います。

ガジェットは情報収集、収集した結果の解析、解析結果によるパターン化、パターンの中の最適解の選択と言ったことを定義することが可能であれば恐ろしく早い速度で実行してくれます。さて、その定義はどこから収集されるか、どう最適解を求めるかを考えてみて下さい。

答えを言ってしまうと、先に書いた発想力やコミュニケーション能力、創造力、変化に対応し実際に行うというアナログな技能に長けた人が担うことになります。対して、限定的な状況にしか適応しない操作者がひな形になることはあり得ません。

実のところ、しのさんと私が言っていることは大差無い気もするのです。いずれも変化に対応しようとしない人は苦労をするし、適応できる人は生き残りやすいという文脈です。しかし、つぶやきの反応を目にしてこの表現を都合良く受け取ると激しくミスリードしまくりそうだなあと思い、書き残してみました。

さて、この文章を読んでくれたあなたはどう思いますか?あなたはどうなりたいですか?

お答えは私に伝える必要はありません。私は微力なので聞き止めるほど余力を持て余していません。因果を背負わずに済む術が無いという現実にどうつきあうかは常にあなたの選択に依存しますし、経過も結果もあなたの財産そのものです。

願わくば、この本で語られるような残念な方向に進まないことを祈ります。

やって来る!今年も怒濤のSteam年末セールがやって来る!!

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年末には色々なセールがあります。クリスマスセールや歳末大売り出しは日本国内でも昔ながらではありますが、WWWに繋がった昨今ではハロウィンセールやブラックフライデー、Amazonのサイバーマンデーセールなど怒濤のセール三昧です。まあ、私にはそんなに買いまくるほどのキャッシュの持ち合わせがないので「おっ!これもあれもいいな!」で終わるのが毎年の恒例でした。

今年はSteamでPCでゲームをするようになったので、俄然Bulbが行うSteamの各種年末セールが気になって浮き足立っています。ということで、自分が忘れないように覚書きしておきます。

数ある恒例Steamセールの中でも最大規模なのがウィンターセールです。(注:右の日付は太平洋時間のものです。日本については16時間進んでいるため翌日の深夜となります。日本標準時換算は下部の纏めに列挙しています。)今年は2018年12月20日から2019年1月3日までを予定しています。ちょうど2週間と期間も長いので期間中色々と楽しめそうです。また、その前に今現在の足元、明後日10月29日から11月1日までの間にハロウィンセール、11月21から11月27日までの間にオータムセールを実施見込みです。

この情報は最初にKotaku UKで報じられました。
www.kotaku.co.uk

また、あるゲーム開発者の一人からのリークがTwitterでのつぶやきが傍証となっています。


「Twitterでつぶやくなとは言われていないからな」というのがなかなかアレな感じですが、そのおかげで情報を知ることが出来て有り難いことです。

日本標準時での2018年Steamセール予定

纏めると以下の通りです。

Steamハロウィンセール2018
日本での開始日時: 2018年11月30日 02:00am JST (10am PDT 太平洋夏時間)日本での終了日時: 2018年11月3日 02:00am JST (10am PDT 太平洋夏時間)セール期間: 3 日
Steamオータムセール2018
日本での開始日時: 2018年11月22日 02:55am JST (9:55am PST 太平洋標準時)日本での終了日時: 2018年11月28日 03:05am JST (10:05am PST 太平洋標準時)セール期間: 6 日
Steamウィンターセール2018
日本での開始日時: 2018年12月29日 02:55am JST (9:55am PST 太平洋標準時)日本での終了日時: 2019年1月4日 03:05am JST (10:05am PST 太平洋標準時)セール期間: 14 日

サマータイムの切り替え

北米の場合、サマータイムの切り替えが11月11日に行われるのでPDTからPSTとなります。そのため1時間ズレるのですが、何故か微妙に5分前にしたり5分後にするのは何故でしょう?計算が間違えていたらごめんなさい。

私のSteamフレンド絶賛募集中

のんびり遊んでいます。一緒に遊んだり、ゲームのお話しが出来るお友達を募集しています(*‘ω‘ *)。ブログ友達だと尚嬉しいです!!仲良くしてくださいね。
steamcommunity.com

余計な一言

ちなみにこの記事は別に広告じゃないので私には一円も入りません。(念のため)

イイヨ!!実は最近スマホでブログ書いていてなかなか快適

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以前は家でパソコンの前にドッカリと座り「さて、何書こう」とやっていました。最近久々に復帰して以降は、ほとんど全てはスマホで書いています。一旦公開した後、家に帰ってから手直ししたりもします。でも、骨子まで手に入れる程の修正はしていません。

移動中や移動先で書くのって落ち着かないんじゃない?

私もそう思っていました。実際以前何回かトライしたときは、そう感じて続けられなかったです。

でも、五回目を過ぎると慣れてきます。今も移動中の電車内で書いていますが、何とかなっています。落ち着かないかどうかと二択をするならば、勿論落ち着きません。家の方が圧倒的にリラックスしています。

案外落ち着かない方が文字を書くことが出来る

この書き方を継続していることでジワジワと判ってきたのですが、私は筋金入りのナマケモノです。リラックスしてしまうと寝てしまうのです。それはそれは幸せな時間の過ごし方なのです。至福と言っても過言ではありません。

ただ、ブログを書くとか何か出力するとなると、それが徒に(あだに)なるのです。楽だからと横になると寝てしまいますし、だからといって身体を起こしていると姿勢を維持するのが辛くなります。寝ながら筆記したりタイピングする特技は持ち合わせませんし、眠くてウトウトしているときに何かをするのは億劫です。

意外や意外、逆に落ち着かない、時間が限られている時というのは、意外にスラスラ文字が出てくるのです。もうすぐ書き終わらないといけないという制限感覚が働きます。そうすると雑巾を絞る漢字では無く、自然に喋るように文字を書き残すことが出来ます。嘘みたいだけど本当なんです。

何で制限されると書けるの?

他の人にも当てはまるかは全く自信がありませんが、自分についてをお伝えします。

私はナマケモノの割には、何故か自分の文章にダメ出しをする癖があるのです。せっかく書き始めても「こんな表現じゃ駄目だ」「こんな内容じゃ誰も読まない」と思い始め、あろうことか全て消してしまったりします。

ただでさえ書けないのにそんな勿体ないことをしていたら、公開に至る結果が少なくなるのは当然です。ことブログに限った話ではなく、自分で自分のあら探しをすると辛辣でどこまでも高い目標を目指すことになります。

そうなるとそれは目標ではなく、絵に描いた餅です。それを実現しようと足掻くのは苦行です。私にはマゾヒストの才能や嗜好は無いので、そんな非現実的なことをしても損にしかなりません。

自分で自分自身や自分の出力に「まだまだこんなものじゃないはず」と思うのは一見すると志が高そうですが真逆です。現実的なところで色々と試行錯誤する方が余程結果に結びつくのです。

スマホで書いていて上手くいかなかったところ

実はそんなにありません。一番自分が気になったのは、アイキャッチを入れるのが面倒でサボりがちな点です。実際「面倒だから公開しちゃえ!」と、文字だけで公開した記事もあります。

でも、それは後からでも修正が効く部分です。書いて公開するか、書かないで悶々とするかを選ぶなら、前者を選んだ方がきっと楽しいですよ。

きっと万能の解決策なんかじゃないけれど試してみたら?

誰でもいつでも効果が出るやり方かと言えば、正直私には判りません。私自身また行き詰まらない保証なんてありませんもの。

ただ、試してみたら案外気に入るかもしれませんよ。思ってたより短い時間で、思うなりを書くことが出来ます。そうなったら、他の時間は他のことが出来るようになります。私の場合は惰眠を貪るために使いますけど、他に色々出来るかもって言う可能性は増えれば増えるほど素敵じゃないですか?

ちなみにこういう身体を動かしながら何かをやると身につきやすいっていうブログ友達たちのつぶやきに関連性あるかもと思ったり…。

もっと汎用的でテクニカルな文章術を学びたいなら

自分にはスマホでのブログは会わないなあと思った方もいますよね。もっと汎用的でテクニカルな文章術を学びたいなら、こんな本はどうでしょう?意外とあなたのケースにあてはまるかもしれませんよ。

第三者の会社からマナーを云々言われる私たちは異常なのかも

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今朝は今朝とて私は通勤しています。その途上、東京メトロの車内にあるマナー広告を見つけました。「あなたのスマホ、誰かの背中や肩に当たっていませんか?」

これは、私が常々迷惑だなあと思っていたことなので、内心ですが激しく首を激しく縦に振りました。今は老若男女問わずスマホを持ち歩き、ところ構わずスマホを弄るのが当たり前になった世の中です。

そんなことを言い出す私はどうしているか?

私とて、この記事を車内で書いているのです。そりゃ皆移動中暇だからゲームしたりSNSしたり音楽を聴いたり動画を鑑賞しますよ。もしかしたら、仕事もやってるかもしれません。

でも、私は座っている人の前でつり革を持ちつつ、前の空間を使っても差し支えない時にしかスマホを取り出しません。

大多数のスマホ弄りは私にはこう見えます

一方、多くの人は混雑で押し合いへし合いしている状況でも構わずスマホ弄りに没頭してしまうのです。

もしかすると最初は周りに気を遣っていたのかもしれません。でも、毎日そうやっていると慣れてきます。他のたくさんの人も同じようにどんな状況でも、いかなる変態的姿勢に陥ろうともスマホ弄りに熱中しているのですから、自分も良いよねと思うのは自然の成り行きでしょう。

でも、背中や肩に押しつけるのは止めてよ!

そういう状況ですから、気がついていないのか気がついているのか判然としませんが、赤の他人の背中をスマホ台にしてしまう人が多く現れます。

前者ならば鈍感で無神経、後者なら図々しく無神経、いずれにせよ自分が良ければそれで良いという思考に陥っています。

少なくとも私は彼ら彼女らに肩や背中をスマホ提供する謂われも義理も全くありません。小心者なので声もかけられずイライラしながら耐えているのが普段の有様です。

恐ろしいことに電車が揺れて、押しつけられていたスマホの画面が読めなくなると何故か私の方に睨んだり舌打ちしたりする始末です。いかんともし難く理不尽です。

第三者の会社からマナーを云々言われる私たちは異常なのかも

前置きの状況説明が長くなりましたが、私が今回伝えたいのはこれです。

確かに私は迷惑だなあと思っています。それを代弁してくれるマナー広告は有難いなあと思いつつも、我が身の不甲斐なさが情けなくなります。

問題があるならば、当事者間で解決するのが良いのです。嫌だなあ、困っていると思えば、そう伝えれば良いのです。ただ、それをすることのリスクや面倒さで目をつぶっていたところに第三者が介入してくれるのは有難いけど歪んでいます。

空気を読むと言う言葉がありますが、大事なことはくうきでは伝わりません。伝わるだろうと片思いをしたところで、失恋して怨念になるのが関の山です。

これは、迷惑行為をする人も、それをいやがりつつ何もしない人双方共に極めて幼稚だということに他なりません。先日他人に物事を伝えるのは難しいと書きましたが、だからといって諦めてため息をついたり身勝手を当たり前と思って好きにたにんに甘えるのは非建設的だと思うのです。

スマホいじり以外にも電車の中には色んな人達がいます

普段電車に乗っていると色んな人に遭遇します。この本のイラストや愛ある説明文を読むと「あーーーーー、確かにこういう人いるいる!」と思い出すことでしょう。友達と一緒に読むと盛り上がっちゃうかも(*‘ω‘ *)。

自分が何を大事に思うのかに気がつくのって案外難しいんだね

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スマートフォンやケータイの通話契約の中に、10分かけ放題みたいな制限付きのかけ放題のサービスがあります。

このサービスを選択すると指定された時間の中であれば、どこに何回かけてもそのオプションの定額の中で収まるようになっています。普段長電話をすることは無いけど、何か用事があった際に電話を気兼ねなくかけられるという非常に魅力的なサービスです。勿論24時間365日かけ放題しゃべり放題のオプションもあります。

でも、それこそ寝てから起きるまで途切れること無く長電話するような通話ジャンキーでも無ければオプション料が高くて勿体ない気がします。「そんなの関係ねー!」と気前よく払う人から見れば、みみっちい話なんですが私はこのサービスを利用しています。

でも、時々時間超過して高い通話料を払う

そう。私はあんまり長電話をしない性分です。しかし、相手がそうとは限りません。特に家族でも友達でも知人でも無い相手にかけた時に限って相手が通話を締めようとしたところで、長引かせたりするのです。

そこで「や。ちょっと、お金掛かるからごめんなさいね(*‘ω‘ *)」と切ることが出来れば問題はありません。これまた私の性分として外面を良くしたいし小心者なので、なかなか切り出せません。

それに加えて、10分ギリギリまでは喋れるなら喋っておこうとか妙な欲求にかられて、時間を読み違えたりします。そもそも私の体内時計はいまいち機能していない気もします。

まあ、そんなこんな度しがたい経緯で、払わないでも良かっただろう予定外の請求額を見てはため息をつくことになるのです。

「10分かけ放題」通話に対応した音声リマインダ機能があるといいのに!

責任転嫁そのものですが、この際素直に欲求を書きます。通話しているスマホなりケータイなりに標準機能として通話開始から10分までに音声リマインダーが優しく状況を教えてくれればいいのになあ…と思うのです。

5分経過したら「通話開始から5分経過しました」、7分目で「後3分を切ります」、9分目からは「60秒、55秒、50秒…」みたいにカウントダウンしてくれるととっても嬉しいです。別にハードウェアで実現することに拘りは無く、キャリア側で提供してくれても良いでしょう。

そんなユーザに便利な機能はキャリア側としては高い超過通話料を徴収できなくなるので実現するのをきっと嫌がるでしょう。

でも、それは短絡的過ぎます。「損して得取れ」と言いますが、顧客満足度を上げておくともう少し長いレンジで超過通話料なんか比べものにならないくらいの利益を長期的に得ることが出来ると思います。

そういう観点が全く見えず、相も変わらず端末価格やパケット料やMNP手数料免除や解約金の肩代わりでジャンガラジャンガラやって人を呼び込むしか商法に進化が見えないのはなんだか変な話です。

短絡的な姿勢が多いのは企業だけではない

ここまではスマホのメーカーや回線のキャリアの商売の姿勢の話やら私の我が儘な要望やらの話です。さて、話の矛先を少し変えましょう。

実はこういう短絡的に短い期間でお金にしようとする傾向というのは、企業に限った話ではありません。例えば、Webユーザのお小遣い稼ぎや、セミプロ的な商売を見てみます。

ブログを初めてすぐに口にするのがPVとアフィリテイトの利益推移です。そりゃあ私だってお金は欲しいし、沢山読んで貰えたら嬉しいです。

でも、それって結果ですよね。本来読みたい人や何かを知りたい人が興味を持って読んで「役に立った」とか「読んで良かった」と思ってくれることが先です。もっと遡ると、それすらも結果で何より「自分が書きたいものを書きたいように書く」というのが先にあって然るべきだと思うんです。

noteや商材販売も好きにすれば良いんですけど、本当にそれは望まれている物なのでしょうか?何より自分がやりたいと思ってやっていることでしょうか?

「余計なお世話」と言われるだろうことは織り込み済みです。私は、そうなる能力も無ければ、そうもなりたくないなあと思うだけです。

自分が何を大事に思うのかを見つめ直したい

Twitterで以下のようなつぶやきを目にして、「これだよ!ほんこれ!!!」共感を覚えました。

また、Favに入れそびれて「しまった」と思った他の方のとあるつぶやきでは「Twitterでつぶやくのは自分がつぶやきたいことをつぶやくためだ。何かを人に気に入られるためではない。自分が好きに書いてFollowが減るなら望むところだ。それは元々Followすべきじゃない人がFollowしていただけだ」という趣旨のことを書かれていました。

この言葉にはつぶやいた直後にどっとFollowerが離れていって「あうあう」とアシカかオットセイみたいになりがちな私には目からうろこな姿勢でした。

まあ、私は豆腐メンタルなんで「音声リマインダ機能」と同じくらい「Follower数を常に見えなくするオプション」が欲しいと思っちゃうんですけどね。

他の人との繋がりの大事さを再発見していくことも必要ですよ

私たちにとって一番大事なのはFollower数やPVじゃないのではありませんか?勿論それも大事は大事なんですけど、最初に関係ありき、伝え伝わる何かがあってこその距離感、なんじゃないでしょうか?そういう観点で落ち着いて考えるとき、心の中のガイドとしてうってつけの本じゃないかなと思いますよ。

自分用マニュアルのススメ!!自分以外の誰かに何かを伝えるのはとても難しい

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そんなこと知ってます!!って反応が目に見えます。でも、実際に何かを伝える状況になると意外と忘れてしまうものです。

きっかけは世にはびこる教えてちゃん

昨日はブログ友達のたぐちさんがこうつぶやいていらっしゃいました。

「うん!判る判る!」と思いつつ、自分ならこうするよというリプライをしました。

この受け答えには条件があります。普段づきあいの中では出会わない…裏を返せば、仕事上嫌と言うほどそういう人に付き合う状況が日常的ということです。

何度も同じことを訊いてくる

まさに教えてちゃんの定義そのものと言える行動です。訊き方はその人の性格によって千差万別です。すまなそうに口火を切る人、その対極で教えるのが当たり前みたいにふんぞり返る人もいます。いずれにせよ面倒くささと教え直す不毛さは大差ないです。

ただ、私が仕事上面するのは主に後者です。なんとも図太い神経をしていますが、その自覚の無さというのは態度に関わらず同じです。覚えていないことに何の痛痒もないし、行動に全く改善の兆しがありません。

私の特殊事情も少しあります

大したことでも無いのですが言葉と文化の壁があります。

私が相手をしているのは、主に欧米と中国、香港、台湾の方々です。話には聞いたことがありますが、彼らは自己主張してなんぼという思考を自然に持ち合わせているので、最初に来るのは責任の所在です。

一言で言えば「私が分かるように説明しないあなたが悪い。」です。逆立ちしても私には真似できない思考プロセスなのですが、そこはそういうものなのだろうとまずあるがままに受け止めています。

当然責任を認めるなんてあり得ないですが、思考の癖がそういう物だと理解しないことには対処が出来ないのです。

とりあえず説明のロジックや要素の抜け漏れを探す

彼らも別に頭がおかしいわけではないので、相応に理屈をこねます。

そこで彼らの主張と自分が行った過去の説明の中で、妥当な指摘と捉えられるところと無理筋な主張を切り分けます。彼らはロジックが大好物ですが、そもそもロジックの論点がおかしかったり立脚点が事実誤認があることも少なくありません。

それを突くと案外素直になることが多いので、まずは受け付けて取捨選択に専念します。

逆に自分に非があったり不足があったら謝って正す

私は完璧にはほど遠いポンコツなので、そこでボロボロと自分の非や不足に気づくこともままあります。

その場合は即座には謝って改善策を幾つか講じます。それが成果が出るかどうかは実際にやってみるしかありません。

一つ大事なことは、その取捨選択のプロセスを再現性があるように記録し広く共有することです。そうしないと人間ですからすぐに忘れたり、誤解が生じる余地が出来てしまいます。

色々書きましたが、私も悩み中

別にこれ完成された対処方法じゃありません。日々、今も悩みの種です。

何で理解に至らないんだろう?何で忘れちゃうんだろう?そんな疑問が頭の中をぐるぐると渦巻いています。

質疑応答に限らず自分以外の誰かに何かを伝えるのはとても難しいです。この難題には全ての先達達が挑み負け続けたものなので、いかんともしがたいのです。

そうとはいえ、諦めて尻尾を丸めたり遠吠えするのも業腹ですから日々挑んでは喜怒哀楽を繰り返しています。従って、ビシッとした結論が私にもないのです。

ただ、他の人はどう取り組んでいるのかもっと知りたいな、と思って記事にしてみました。

マニュアルを作ってあげるんじゃ無くて自分用マニュアルを作って貰うのはどう?

他の人の理解の仕方は自分とは違います。一生懸命噛んで含めるように説明しても分かってくれなかったり、一旦納得したみたいでも何度も聞かれたら悲しくなりますよね。それでは、教えているときに相手に実際にその時理解したことを自分用マニュアルに纏めて貰うのはどうでしょう?この本の最終章に作り方があります。

また、こちらの記事も参考になると思います。
wol.nikkeibp.co.jp

自分でその場でまとめたマニュアルがその人のその時点の理解なんです。その内容を読んで足りないところを足したり、間違えていることを直していくと理解がお互いに近づきます。

一旦その人の自分マニュアルが出来たらコピーするとかPDFファイルにしておきます。そして、また質問をしてきたときにその内容を使って再度理解し治して貰います。きっと前回より短い時間でより正しく理解しやすいんじゃないでしょうか?

わざわざ目の前で一緒にして貰うのは面倒ですけれど、そういう人の「後で」は信用してはいけません。書いた内容も本人は雑に扱ったり無くしてしまうのがオチなので手元保管するのが良いのです。最悪時間が割けないときは、「これを読んで自分で思い出して下さい」と任せちゃうことも出来ますしね。

週休三日制を世界標準にしたらどうだろう?

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こんな記事が目に入りました。私は常々、それくらいが世界標準化したらいいのに…と思っていた口なので「良いなあ」とついオフラインでつぶやき、周りの人に「何が?」とツッコまれました。

世界標準ってどういうこと?

ちょっと恥ずかしい私の話はさておきます。まあ、我ながら世界標準は言い過ぎですね。もっと休暇に裁量を持っている人も沢山いらっしゃるでしょう。

迂遠でも正確に書くと「今、週休無しから週休一日から二日までを取り決められて仕事をしている人に対し、標準的に三日くらい休むような仕組みだと良いなあ」です。

別に義務化する必要は無い

それでも「自分はもっと働きたいんだ!よけいなことを言うな!!」と目くじらをたてる人もいるでしょう。私は別に祝祭日や制度みたいに決めごとにするというイメージを持っていません。

あくまでそれくらいになっても不自然に感じないような、仕事や学校に人生を縛られるような空気は無くなっていくと良いなあと思うのです。

勿論ある期間にバリバリ仕事に没頭しないと出来ないこともあるでしょう。それなら、健康や効率を下げない範囲でそこは自分の意思でそれを選択して、休みはきっちり取るようコントロール出来ると良いですね。

或いはダブルワーク、トリプルワークを選んで、後で休むとか。とにかく組合せが自由で、生活、人生を楽しめる形にしていけたら素敵です。

何でこんなことを書いたのか?

きっかけは冒頭の記事です。でも、常々そう思い出したのは、私の子どもが高校に入学してから週休一日になったことが根っ子にあります。

確かに一日あたりの授業時間は短いので総合して時間を見ると週休二日制と変わらないそうです。でも、見た目に疲労が溜まっているようで心配になりました。まだ慣れてないということもあるのでしょうけど、親としては気になります。

本当のところ、標準なんて考えるだけ無駄かもしれないけれどね

自分の親は仕事や学校が週休一日で週休二日制を勝ち取ったみたいな話を念仏のように口にしていました。「そんな時代もあったのね」と他人事みたいに聞き流していたのは今は昔の私の子ども時代のことです。

今になって思うに世の中を知らない呑気な捉え方でした。冒頭から週休二日制が世界標準みたいに書いていますが、現実は世界は勿論のこと今この日本でもそんなの夢みたいという人がザラにいます。

そういう状況が今も昔もそうだからと看過してはいけないのではないかと私は思うのです。

急がず怠けずおこたらず

私の大先輩が定年で辞められるときに、諭すように残して下さった言葉です。

今なおその領域に達しておりませんが、減速する、ブレーキを踏む、エンジンブレーキでも良いからアクセルをべた踏みしない。そういう感覚は実践しないと身につきません。この本が即座に実現できるかは別として考え方を知っておくという意味で大事だと思います。

「無ければ死んじゃうような物を作れば売れる」という衝撃的な言葉

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厭世まではいかずとも怠惰で後ろ向きな終活

この歳になると数回は生きる死ぬと直面したり、思案をしたりする機会に面する機会はあります。人生の折り返しを超えたあたりで「まあ。こんなものか。」と自分を俯瞰して諦めたり慰めたりする訳です。同年代や周辺年代の人が大きく出世したり、或いは櫛の歯が抜けるように亡くなるのを見ると尚更総括的なことでもすることと纏めに入ろうと思うのです。

とはいえ、現実問題、子どもも巣立つまでに二十年弱を想定しなければいけないし、年金を筆頭とした社会保障的な物がどんどん壊れてしまっている状況があります。安穏と平和に老後に備えて生きていくということを望むのもとても厳しいです。直視してしまうと出るのはため息ばかりです。

死生観をそのまま仕事に載せている人の必死な前向きさに驚いた

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そんな現実逃避的な日々の中、見るともなしに流していたテレビのニュースの中で、NTTドコモを守る29歳社長の生き様といったルポ特集に何故か意識が向きました。そこで主題に書いた「無ければ死んじゃうような物を作れば売れる」という衝撃的な言葉は、そこで出てきてギョッとしました。

仕事がとんでもなく出来て、世界から注目される新進気鋭の社長29歳。「若いのに凄い!」ということも驚きましたが「「仕事を行って価値を生み出さなければ死ぬ」的な強迫観念、切迫感はどうして生まれ何故維持し続けているのだろうと不思議に思いました。

一瞬だけなら誰だってそういうことは頭によぎりますが、それが長じて高校生の頃から学費捻出のためにマーケティングリサーチ会社を作る。そこで収まらず、今は日本で最も導入されたセキュリティの仕組みを提供しAmazon本体との提携に着々と歩を進める。それを「ありえないくらい凄い」と認めてしまった時点で自分には、想定の面でも実行の面でも至りつける境地では無いと尻尾を丸めてただただ感嘆する他ありませんでした。

役に立ちたいという思いは私にもありますけれど、彼が口にする役立つ何かには決定的な隔絶があるように感じました。

ものづくりに際して必死になれない年代が日本を凋落させたのだろう

彼の「純粋な役立ちたい、自然に浸透する流れを生み出す」という姿勢は、提供だけして終わるものではなく利用者が自身で望み生活の一部に取り込む、一旦取り入れたら後戻りできなくなるようなそんなヒリヒリした何かが常にあるように思います。

一方日本の既存の製造業はどうでしょう?十把一絡げに扱うのは失礼なのですが、その場で作った物がコスト以上の値段で販売できお金をかき集められることにだけ特化しているように見えます。裏返すと、お金さえ手に入るのであれば勤勉足らんとしようとか、役に立ちたいといった思いが限りなく後退しているように感じます。貧すれば鈍すと言いますが、付加価値を生み出せない多くの人達や組織は、結局目の前の自分の仕事の繰り返し、組織の分断化、どこかで見たようなメソッドを導入します。そして、魂のこもらない仕事を繰り返し、個人だけで無く組織単位で保守化していくのです。

まんま自分の職場の足りていないこと、そして何者でも無い自分が頭に浮かび。少しだけ落ち込みました。

「自分もやっちゃる」くらいに思えたら良いのだけれど

残念ながら、理屈は理解出来ても、実行に至るための手段や時間のに身を投げ出すことは出来そうにありません。ブルースリーは「考えるな、感じろ」と映画の中で口にしたくらい、まずは動いてなんぼ、譲り合って仕事を選んで文句垂れている場合じゃ無いことは確かですね。

まあ、またオチのないぼやきを書き連ねてしまいました(*‘ω‘ *)

ひそかに貪欲に憧れる私のつぶやき

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お題をいただきました、「貪欲の秋」。お題「貪欲の秋」

貪欲ってどんなイメージ、どんな意味?

貪欲という言葉は、見た目あまり良い感じはしません。強欲という意味を含んでいて、過剰に欲する、やり過ぎ感がニュアンスとして強いからです。例えば、他人から略奪するとか、他人の不幸はいざ知らずという利己的な欲求を指したりすることがあります。

しかし、その一方で飽きることなく深く長く欲するという意味も持ちます。「それも良くないイメージじゃん!」と思われるかもしれませんが、私はこの意味での貪欲を持つことができる人がとても羨ましい。憧れているといっても差し支えありません。

なぜ私は貪欲に憧れるのか?

貪欲の逆は無欲とか恬淡とか清貧的な単語が並びます。ある意味格好いいです。でも、自分が持つ属性としては「小欲」が近い。「小欲」とは「欲求が少ない、無欲である」という意味にくわえ「目標がない」を併せ持ちます。

目標があるというのは自分が目指すべき物、自分にとっての大事な物を明確に持つということです。私はそういったことを考えるのがとてもとても苦手なのです。

時間とお金をあげるから何か自由に好きにやっていいよ…と言われたとしましょう。勿論私にだって欲しい物の一つや二つはあります。だから、多分それらを手に入れます。しかし、そこから先がありません。手に入れて一通り使ったり確かめたら、それで満足してしまうのです。

貪欲であるならば、まず飽きると言うことが無いのです。手に入れるプロセスだけではなく、余すこと無く使い尽くしたり、それを使って更に先を作ったり繋げたりを続けます。もうこれでいいや、ではなく、まだまだ足りないになるのです。欲とは色々なことを現実に起こすための素地です。それ自体に良い悪いはありません。

その観点で私は貪欲という才能に憧れを抱いています。

無欲とはいいがたい凡俗だけれど

こう書くと、私のことを生けるシカバネみたいに見てしまうかもしれません。いやいや、そこまではいきません。普段の生活を送る中で欲しいものは色々とああります。およそ人間の五欲はそろえています。ただ、先に書いたようにそこから先が無いのです。欲求の継続性とか、活力みたいな物があまりありません。

だからだと思います。小さい頃から今に至るまでガツガツした人、欲求を隠さない人は苦手です。そりが合わないというのも大きいですが、その裏には嫉妬というか羨みがあるのだと思います。

さて、お題には秋もありましたね

ベタに秋と飽きをかけてしめるという寒い終わらせ方を考えていましたが、我ながらそれは筋が悪すぎる気もします。

とりあえず私は秋の夜長、本を読みながら、自分が今持っている物を良く見直して見ようと考えています。新しく得るために執着することも活力です。それだけではなく、今この手の中にある大事な物を見つめ直し、より深く大切にするということもまた必要なことだと思うのです。

なんかシミジミした語りになりましたが、たまには普段しないような思索をするのも気分が変わって面白いじゃありませんか?

疲れたときはとにかく疲れないようにすることが大事

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ネガティブケイパビリティについて

yutoma233.hatenablog.com
おのさんのTwitterのつぶやきで初めて知った言葉「ネガティブケイパビリティ」について思ったことをつらつら書いてみます。

おのさんは記事の頭の方で簡単にいえば自分の悩みをスッキリ解決できる、すぐに得られる答えを求める能力がポジティブ、逆に解決しない答えを抱えていても持ちこたえていくことが出来る能力がネガティブ、ということなのだろうとご自分なりの理解を書かれていました。

自分がこの単語を見たときに思ったのは、何でこの単語を作った人はこんなに汎用的な意味を絞り込みにくい言葉を使ったのかという明後日な方向でした。CapabilityはCapacity or Abilityつまり、「力量、能力」或いは「必要十分な」「資格」あたりなので一見Abilityとほぼ同義に見えます。ただ、Capacityを許容量とし、その能力、つまり許容範囲、許容能力の流れで持ちこたえるという言葉を選んだのかなあと考えました。ConfrontやReistのように積極的対抗的な防御姿勢というよりは「ダメージを受けつつ受け流して何とか持ちこたえる、やりすごす」。ただ、それならwithstandの方がより具体的かもしれませんね。

実際、日本語にすると訳語が定められないみたいで藤本周一氏の論文「John Keats : “Negative Capability” の「訳語」をめぐる概念の検証」を読むと、自分と同じような観点でアプローチをかけていてとても面白く読むことが出来ました。

疲れたときはとにかく疲れないようにすることが大事

翻って私の昨年の夏以降今年の5月くらいまでは、とても個人的にしんどい時間でした。とにかく疲れてしまったのです。一言で言えば、モラルハラスメントの対象にされ、それを自覚的に解決しようとするまでにかなりの時間消費と精神的な疲弊を余儀なくされました。

人によってCapabilityは違うと思いますが、自分はあまりにそういった悪意に無頓着だったし、そもそも自分がそういう被害に遭っているということに気づけなかったのです。そのため許容も何もあったものではなく、ただただ自責の念と無力感を植え付けられ、元気が無くなっていきました。今は振り返ることも出来ますが、最悪の精神状態の時は「自分が生きているのはきっと迷惑なのだろう」「このまま死んでしまえば楽になることが出来る」などということばかり考えるようになりました。

幸い自分には支えてくれる家族もいましたし、職場を変えることで環境を一新出来る幸運が巡ってきたこともあり、振り返られる程度には回復してきました。完全に復調したかどうかは自分では分かりません。

ただ、その拙く藻掻いた期間に得た物の一つが、疲れたときはともかく疲れないようにすること、結論を急いでつけて自分を追い詰めないことはとても大事ということです。

おのさんが結論づけようとしたお話しとは全く違う「脇からちょっと咬み」みたいなからみ方で恐縮なのですが、今胸にあることを書き残しておきたいとと思い、このように出力してみました。

ネットでは古典的ですが「スルー力」が超大事

ネットでは「スルー力」という言葉が昔からよく口にされていますが、実践するとなると「どうしたものか?」と首を傾げちゃうことありますよね。とってもとっても辛いとき、あえて目の前の危機に対して鈍感になってみるというのもネガティブケイパビリティの有効な手法だと思います。この本を読むことがあなたの助けになると嬉しいです。